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何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】

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 ちなみに?内訓?というのは当時の上流階級の女性たちの間での女としての心得を説いたものだ。婦女子のための教養読本としては最も有名なものである。
「まさか、そのようなことはございません。?内訓?によれば、女は嫁ぐ前は父親の、嫁いだ後は良人の、更に老いては息子の影となれと書いてありますが、生涯、誰かの影に徹して生きるなど、生身の人間には至難の業と思われませんか?」
「中殿」
 王が愕きに眼を瞠る。普段はしとやかで、?はい?と?いいえ?しか言わない王妃がここまではっきりと物を言うのは珍しいことだった。この時、これで話が終われば、もしかしたら事態は良い方向へと向かっていったかもしれない。
 打てば響く反応を見せた王妃に、現に若い王は初めて見る女のような新鮮さを見出していた。
「確かに、そなたの言うとおりだ。一生を誰かの影で生きよとは女の心を無視した教えと言えなくもない」
 王が頷くと、王妃は妖艶に微笑んだ。
「されば、もう、こちらはいらっしゃらなくても結構です」
「中殿!」
 王の形の良い眉がつり上がった。
「もう半年以上もお渡りがなかったにも拘わらず、何故、殿下が急に思い立ってお越しになられたか。その理由は敢えてお訊ねは致しません。ただ、良人の愛をとうに失った哀れな女の顔をご覧になるために、わざわざご政務でお忙しい御身をお煩わせする必要はないかと存じます」
「それがそなたの応えなのか? 中殿」
 王の強ばった声が二人だけの居室に響いた。
 王妃は依然として笑んだまま頷いた。
「殿下のお心がここにないと知りながら、殿下をお迎えするほど私は人間ができてはおりません。いまだ、影にはなりきれないのです」
「―帰る」
 王が立ち上がったのに、王妃は止めようともしなかった。
 扉を開けながら、王は王妃に背を向けた姿勢で静かに言った。
「私たちはやはり、どうしても解り合えないというのだな」
 半年ぶりに訪れた王が早々に帰ってゆくのは、あまり良い兆候とはいえない。しかも、王の横顔は誰が見てもそれと判るほど固く、蒼褪めている。中宮殿の尚宮や女官たちは不安げに互いに顔を見合わせた。
 早足で去ってゆく王の後をぞろぞろとお付きの内官や尚宮、女官が追う。その行列を見送ってから、孫尚宮が室内に戻ってきて気遣わしげに言った。
「中殿さま、一体、殿下は何をお怒りになったのでしょう?」
「私の本音をありのままに申し上げたまでのこと」
 王妃は投げやりに言った。
「書見をする気も失せた。お茶を淹れてくれ」
 言い終えるか終えない中に、中殿が胸を押さえて、うっと呻いた。
「あ―」
 まるで花が散るようにか細い身体がくずおれる。
「中殿さまっ」
 孫尚宮が悲鳴を上げた。
「大事ない。騒ぐな」
 王妃は左胸を片手で押さえ、荒い息を吐いている。相当に苦しいのであろうことはひとめで知れた。
「ううっ」
 ほどなく王妃は烈しい嘔吐を始め、先刻食べたばかりの朝食をすべて戻してしまった。
「誰か! 誰かおらぬか! 内医院(ネイオン)の医師を呼ぶのだ。早うに致せ」
 孫尚宮は、倒れ伏した王妃を助け起こしながら、声を限りに叫んだ。

 一方、大殿に帰る途中で、王ことユンは内医院の侍医に出くわした。血相を変えて去ってゆく侍医の一団を少し離れた場所から認め、ユンは立ち止まった。
「あれは、どうしたのだ?」
 ユンの意を受けた大殿内官(テージョンネーガン)がすぐに侍医団を追いかけてゆく。侍医と何やら話していた内官はすぐに戻ってきた。その顔色の悪さに、ユンは怪訝そうな表情になった。
「どうしたのだ? 何かあったのか」
「それが」
 ユンがまだ即位する前からお付きであった老齢の内官は口ごもりながら告げた。
「中殿さまが急にお倒れになったと」
「中殿が?」
 ユンは愕きを隠せなかった。先刻、気まずい別れ方をしたばかりの妻であったが、あのときは別段特に苦しそうには見えなかったし、具合が悪いようにも見えなかった。
「それで、中殿の具合はどうなのだ?」
「それは何とも申し上げられません。医師もまだ中殿さまのご診察はこれからのようでございますし」
 その瞬間、ユンは叫んでいた。
「中宮殿に戻る!」
 その脚で引き返した彼が見たのは、まるで別人のように蒼白な顔で横たわる妻であった。
「これは一体、どういうことだ?」
 お付きの孫尚宮に訊ねると、彼女は泣きそうな顔で首を振るばかりであった。
「判りません。殿下がお帰りになった後、急に苦しまれ出したのです。酷い嘔吐を繰り返されて」
 その傍らでは侍医が慎重に王妃の脈を診ている。
「どうだ? 何か判ったか?」
 病人に配慮して小声で問うのに、白髪の侍医は難しげな顔で黙り込んだ。
「何ゆえ、何も応えぬ」
「急性の食あたりかと存じます」
「食あたり? それでは、中殿の食べたものの中に原因になるようなものがあったと?」
「単なる食中毒であれば良いのですが」
 侍医の含みのある言い方に、ユンは眼を見開いた。
「それは、どういう意味だ? もしや」
 流石に毒とは口に出せないでいると、侍医の方が声を潜めた。
「その可能性も現段階では否定しきれません」
 ユンは言葉を失った。王室では大妃に次ぐ地位にある王妃を狙った毒殺未遂事件―。もし仮に真実であれば、手をこまねいていてはいられない事態である。
「良いか、毒殺の可能性があることは絶対に外には洩らすな。また、この件に拘わった者にも同様、不必要に口外はせぬようにと厳しく口止めするのだ」
 ユンの言葉は直ちに内医院の職員たちや孫尚宮を通して中宮殿の女官たちに国王直々の厳命として伝えられた。
 もちろん、毒殺未遂の可能性に関しては、真実を知るのは内医院の侍医と限られた医女、中宮殿の女官では孫尚宮と腹心の女官数名に限られた。
 直ちに解毒効果のある煎じ薬が処方された。それを呑んだ王妃の容態が落ち着くまでユンは側にいたが、一刻後、中宮殿を出た。
 いかにしても理解し得ないとはいえ、相手は十代の頃から連れ添った妻であり、血縁的にも従姉に当たる。いつか明姫にも告げたように、心が醒めきっているとはいえ、その妻を無下にできるものではなかった。
 もしや、自分が冷たい態度を取ったことが妻の心を傷つけ、その精神的打撃があのような烈しい腹痛や嘔吐を引き起こしたのでは?
 その可能性は否定できない。念のために、その夜、大殿に呼んで訊ねたところ、侍医からは曖昧な表情で返答があった。
「その可能性もまったくないとは言い切れませんが、現在は食あたりか毒が中殿さまの朝のお食事に紛れていたと考えるのが妥当かと存じます」
 更に、
「しかしながら、時として精神に加えられた打撃が予想外の烈しい身体的症状を引き起こすこともあり得ます。人の心とはそれほど繊細なものですゆえ」
 と、侍医の声に、どこか咎めるような響きがあるように思えたのは自分のひがみだろうか。
「殿下」
 いつもお側去らずの内官が心配そうに声をかけてくる。ユンが退席を命じない限り、彼は大抵の場合、側にいる。今も浮かぬ顔で侍医とユンのやりとりを聞いていたはずだ。
「黄(ファン)内官、悪いが一人にしてくれ」
 黄内官はハッと息を呑み、それから恭しく頭を下げた。