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何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】

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「さようにございますか。それならば、よろしうございました。先刻、洪女官さまが淑媛さまのお部屋から出ていかれる時、何か花束のようなものを抱えておられましたので、そのことと関係があるのかと」
 淡々と言い、最後に掬い上げるように見上げるその目つきが何故か虫酸が走るほど嫌な感じがした。
「それは、そなたの見間違いであろう。私は確かに先刻、淑媛さまのお部屋から出ていったが、別段何も持ってはいなかったぞ」
 思わず狼狽しそうになるのを堪え、ヒャンダンは平静な口調で応えた。
「それにしても、そなたこそ何用でこそこそと私の周辺を嗅ぎ回っているのだ?」
 少し強い詰問口調で訊ねると、女官は大袈裟に手を振った。いつもの淡々とした挙措からは、不自然なほど大仰すぎる仕種に余計に疑念が募る。
「人聞きの悪いことを仰せにならないでください。そんな嗅ぎ回るだなんて、私は何もしておりませんよ。ただ偶然、淑媛さまのお部屋の前を通り掛かろうとした時、洪女官さまのお姿をお見かけしただけです」
「もう良い。用もないのに、そなたのような新入りが無闇に淑媛さまのお部屋に近づいてはならぬ。さっさと下がって己れに与えられた仕事をまっとうしなさい」
「はい」
 女官は慇懃に頭を下げ、引き返していった。
 嫌な女。
 ヒャンダンは小さく首を振った。普段から、ここまで他人を好悪の感情だけで判断することはないのに、何故か、あの狐面の女官はひとめ見たそのときから、好きになれなかった―どころか、できれば拘わりたくない、大切な女主人明姫に近づけたくないと思ったのだ。
 ヒャンダンはかつては親友でもあった明姫を何より大切に思っている。また明姫の身分や立場に拘らず人に接する姿勢も好ましく思っていた。この人であれば、我が生命を賭けても惜しくはないとすら思い定めてお付き女官になったのだ。
 成女官の姿が廊下の曲がり角の向こうに消えたのを見届けた後、ヒャンダンは両開きの扉に手をかけた。
「淑媛さま、ヒャンダンです」
 声をかけてから中に入ると、明姫が待ちかねたように近寄ってくる。
 物問いたげに見つめられ、ヒャンダンは女主人を安心させるように微笑んだ。
「大丈夫ですわ。誰にも逢うこともなく、花は処分しておきましたゆえ、ご安心くださいませ」
 明姫の白い面から愁いの表情が消え去るのを見、ヒャンダンは成女官のことは言うまいと決めた。別にあの女官は自分が国王さまから賜った花束を持っていたところをしかと見たわけではない。
 後にヒャンダンはこの朝のことを図分と悔やむことになった。何故、成女官の挙動不審について、もっと深く考えてみようとしなかったのか?
 だが、このときは流石に怜悧で有能なヒャンダンもとりあえず事なきを得たことに安心しきってしまっていたのだった。

 異変

 丁度その同じ時刻。中宮殿(チュングンジョン)では、王妃が食事を終えて寛いでいるところであった。仁順王后(イスンワンフ)と後に呼ばれることになるこの王妃は二十三歳、良人である国王より一歳年上女房である。
 領議政白勇修(ペク・ヨンス)のただ一人の娘として生まれ、誕生の瞬間から未来の后がねとして大切に育てられ妃となるにふわしい教育を受けてきた。細面で端正な面立ちは美形で知られるペク一族ゆずりであることがひとめで判る。
 例えるなら咲き誇る牡丹のように艶やかであり、なおかつ典雅な美貌は若き日の大妃にうり二つでもあった。もっとも、王妃が受け継いだのは伯母の美貌だけでなく、権高で誇り高く嫉妬深い性格もまたしかりであったが。
 桜色の座椅子(ポリヨ)に座った王妃の後ろには、四季とりどりの花々が精緻かつ大胆に描かれた屏風がある。今、その屏風を背景にやはり薄桃色のチョゴリに萌葱色のチマを纏った王妃は匂うかのように美しかった。
「中殿さま(チユンジヨンマーマ)、食後のお茶はいかがなさいますか?」
 お付きの孫尚宮は中宮殿の筆頭尚宮であり、なおかつ王妃が十五歳で嫁いできた頃からの腹心でもある。
 孫尚宮が恭しく問うのに、王妃はゆったりと首を振る。
「今は良い。しばらく書見を致すゆえ、その後で頂こう。私が良いと申すまで、誰も部屋には近づけぬよう」
「はい」
 孫尚宮は頷き、静々と下がっていく。
 そのときであった。表が俄に色めきたった。騒々しい気配に王妃は綺麗に整えられた眉をひそめる。
「いかがしたのだ?」
「中殿さま、国王さまのお渡りでございます」
 室外から女官の声が応えた。
「何と」
 王妃は眼を見開いた。入内して王妃に冊封されて以来、既に八年を経ている。良人である国王とは褥を共にすることもなく数年が過ぎ、最早、名ばかりの夫婦と言っても良かった。
 公式の場や大妃の前で夫婦揃ったときには、流石に仲睦まじい夫婦を演じてみせるものの、それがまったくの芝居であるとは宮殿中の者たちが知っていることだ。
 しかしながら、その実、王妃は良人である王をひそかに恋い慕っていた。朝廷一の実力者ペク・ヨンスの娘であり、生まれながらにして王妃となるべく運命づけられていたがゆえに、誰よりも誇り高くあれと育てられた。
 そのため、自分の感情を表に出すこともできず、王妃たる者は無闇に気持ちを他人に見せてはならないと教育された。結果、王妃は美しいが感情も意思もない人形のようになった。
 また、良人となった国王が血縁的には従弟であり、年下というのもあったかもしれない。大妃ですらが
―中殿と主上が並んでいると、夫婦というよりは厳しい姉と遠慮ばかりしている弟のようではないか。
 と、嘆いたほどだった。
 結婚した当初は王もまだ十四歳で子どもだったが、この八年で立派な青年となった。女と見紛うほど美麗な面立ちに早くも聖君(ソングン)との呼び声も高まる英邁さが滲み出ており、事実、若き国王はその評判どおりの善政を行っている。
 朝廷人事では老臣たちの意見に耳を傾けながらも、若い臣下たちの意見も率直に取り入れ有能な者であれば家門の高低に拘わらず重用し抜擢する。もちろん、それが父の領議政をやんわりと牽制するものであることは王妃だとて判っているが、どう考えても、古参の古い臣下たちばかりで物事を決めて進めるのが賢明だとは思えない。
 その点、王妃は若く聡明であった。事の真実を見抜くだけの眼は持っていた。しかし、領議政の娘という立場上、自分の想いを口に出すべきではないとも判っていた。
 英明な王として、その道を邁進している直宗が王妃を魅了しないはずはなかった。元々、物心ついたときから、自分はこの男の妻になるのだと言い聞かされて育った身であれば尚更だ。
 しかし、そんな時、王妃の自尊心がいつも邪魔をした。公式の場でたまに顔を合わせた時、王はこの上なく優しい笑顔で気さくに話しかけてくる。それがたとえ上辺だけのものと判っていても、その見せかけだけの優しさに縋りたい、自分はこんなにもあなたを必要とし愛しているのだと伝えたい―そう思っても、誇り高くあれと言い聞かされた身では、何も口にできなかった。
 ただ王の見せかけだけの笑顔に自分も取り繕った笑みを返すのが精一杯だった。