何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】
あの頃は良かったとつくづく思わずにはいられない。ユンが国王であるとは知らず、ただの学者の若者だと信じ込んでいたあの頃に戻れたなら、どんなに幸せなことか。
誰にも何も言われず、ただの男と女として市井で夫婦として生涯を送れたとしたら、どんなに良いだろう。権力闘争も王の寵愛をめぐって女たちが妍を競うこともなく。
「これも殿下に頂いた品であることに変わりはないのよ」
大切そうにノリゲに触れながら言うと、ヒャンダンも微笑んだ。
「よほど大切な想い出のこもったお品なのですね。それにしても、殿下の御事をお話しになられるときの淑媛さまのお顔のお幸せそうなこと! この私ですら、妬けてしまいますわ」
「や、やだわ。ヒャンダンったら、からかわないで」
頬を染める明姫に、ヒャンダンが言う。
「名案があります。今のように殿下の御事ばかりをお考えになっていれば、お顔の色も明るくなって健康的に見えますよ?」
「もう! 知らない」
明姫が真っ赤になってあらぬ方を向くのに、ヒャンダンはまるで友達時代と変わらないように声を上げて笑うのだった。
そのときだった。
ヒャンダンが?あっ?と声を上げた。
「どうかしたの?」
「お花が―」
忠実な女官の視線の先を辿り、明姫も思わず声を上げそうになるのを辛うじて堪えた。
部屋の片隅に置いてある飾り棚―、その上の花瓶には百合と桔梗が活けられていた。昨夜、ユン自らが少し得意げに花束を抱えて訪ねてきて、そのときに贈られたものだ。物入れである棚も螺鈿作りならば、清国渡りの青磁の花瓶も精緻な文様が施されている。
更にその見事な花瓶に負けないほど豪華な花束は、豪奢な飾り付けのされた室内を更に華麗に彩っていたのだが―。
むろん、その花束を抱えてやって来たユンはその後、明姫と睦まじく閨を共にした。牡丹に舞う一対の蝶が描き出された螺鈿細工の飾り棚を眺めながら、ヒャンダンは
―我がお仕えする淑媛さまほど主上さま(サンガンマーマ)に愛されている女人はこの世にいない。
とまで誇らしく思ったものだったのに。
昨夜、ユンと寝所に入るまではあれほど生き生きと咲き誇っていた花たちが一夜明けた今は無残に散っている。しかも、大輪の純白の百合は嘘のように花びらも茶色っぽく変色していた。
何日も経ったのであればともかく、たった一晩でここまで枯れてしまうことがあるものだろうか。その時、明姫もヒャンダンも一様に脳裏をよぎったのは同じ想いであった。現実には俄(にわか)に信じがたいことではあるけれど、今、眼の前で哀れにも花びらを散らした花を眼にしていては到底信じないわけにはゆかない。
それでも、明姫はまだ悪い夢を見ているような心地だった。
「殿下に申し訳ないことをしたわ」
うわ言のように呟くと、ヒャンダンが気を取り直したように早口で告げた。
「こうなってしまったものは致し方ありません。とにかく人眼の触れない中に早く片付けてしまいましょう」
確かに、ちょっと萎れた程度であればまだ救いようもあろうが、ここまで枯れてしまったものを今更どうしようもない。
ヒャンダンの判断は的確であり、また迅速でもあった。有能かつ忠実な彼女はすぐに現実に立ち帰ると、自らが枯れた花たちを片付け、いずこかへと持ち去った。明姫に直接付いている女官ともなれば、このような雑用は大概は下級の者がする。しかし、この場合、国王手ずから賜った花束を一夜で台無しにしたとあっては、外聞をはばかられる。だからこそ、今回に限り、ヒャンダンは下の女官に任せずに、自ら一人で事の処理に当たったのだ。
もちろんユン本人は報告を受けても、ただ残念がる程度で?仕方ない?と笑って済むだろう。が、周囲の者がそれでは済まさない。
―畏れ多くも、国王さまから賜った花を粗略に扱った不届き者。
と、非難を明姫が受けることになる。それが、宮廷もしくは後宮の怖いところであった。また、ユンの国王という立場の難しさでもあったのだ。
幸いにも、この件はヒャンダンの機転で極秘裏に処理したお陰で、表沙汰になることはなかった。ユンがヒャンダンを明姫の側近に指名したのは正しい判断だったといえよう。
無残に色褪せ花びらを散らした百合や桔梗を眺めながら、明姫はたった今、ヒャンダンが紅を塗ってくれたばかりの桜色の可憐な唇を戦慄(わなな)かせた。
ヒャンダンが花を棄てて女主人の居室に入ろうとしたまさにその瞬間、廊下の曲がり角から女官が現れた。
「洪女官さま、どうかなさったのですか?」
その女官は下級の者だが、つい最近、見習いから昇格したばかりである。もう二十歳にはなっているであろうのに、その歳で見習いから昇格というのもおかしな話ではあった。
よほど鈍重な使えない者でない限り、そこまで昇格が遅れることはないのだ。しかし、大妃殿からの強い推薦があると聞き、その者をこの殿舎で使わないとは到底言えなかった。
側室として入宮した明姫はもちろん独立した殿舎を与えられている。この殿舎付きの尚宮はむろんいるが、大人しい人なので、現実に殿舎の人事やすべての采配を取り仕切っているのはヒャンダンであった。
当初は明姫の伯母である崔尚宮を明姫付きにという話もあった。それはユンの強い意向でもあったのだが、これには崔尚宮自身が意外にも断った。
―明姫と私が血縁であるというのは、後宮でも内密にしております。幼い明姫が後宮に入るまで度々生命を狙われたことを思えば、敢えて明姫の氏素性を他に知られるようなことは慎むべきかと存じます。
本心では崔尚宮も側室となった姪の側にいてやりたい。尚宮として側から支えたいと願うのは当然であったが、国王直々の意向で崔尚宮が金淑媛付き(ちなみに明姫は本当の素性を隠しているため、金氏を名乗っている)の尚宮に抜擢されたとなれば、そこに何らかの理由があることを詮索したがる輩がいないとも限らない。
そのため、崔尚宮は今までどおり大妃付きとして仕えることになった。
この殿舎の人事を一手に引き受けるヒャンダンがその新入りを仕方なく引き受けたのは、今からほんのふた月ほど前のことだ。使ってみると、別にそこまで機転が利かないこともないし、むしろ利発な方だと判った。
では何故、そんな娘がこの歳まで見習いでいたのかと疑問は残った。しかし、大妃の意向が働いていると知れている今、あれこれと詮索しても無意味である。それでなくとも大妃は明姫を快く思っていない。大妃の推薦した女官を拒絶すれば、余計に明姫への憎しみを煽ることになりかねない。
ヒャンダンは小首を傾げ、下級女官を見つめた。
「何故、そのようなことを私に訊ねるのだ?」
先輩らしい威厳を漂わせて訊ねると、成氏(ソンし)を名乗るその女官は淡々と応えた。
「いつもは落ち着いていらっしゃる洪女官さまが取り乱しているようにお見受けしたもので」
まるで狐を彷彿とさせるのっぺりとした面に細くつり上がった眼には、およそ感情というものが窺えない。物言いもどこまでも平坦だ。
「別に何事もないが?」
作品名:何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】 作家名:東 めぐみ