何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】
待望の第一子が死産であったことに、?昭容は意気消沈してしまった。以来、床から起き上がることも敵わなくなり、今では半病人の体である。ユンは二人の妃たちと関係を持ったのはただの一度きりで、明姫が入宮してからというもの、王の寝所に召されるのも王がその寝所を訪ねるのも明姫だけなのだ。
明姫としては大妃の手前もある。ユンには事あるごとに
―どうか、ご寝所に召されるのは、どの妃たちも公平になさってくださいませ。私ばかりがご寵愛を頂くのは外聞が悪うございます。
と懇願してみるのだが、ユンは応えず、ただ笑っているだけだ。
まだユンが王だと知る前、彼は言った。
―私は生涯、ただ一人の女だけを守り愛し抜く。
今の彼の行動はまさにその約束を実行しているに違いない。むろん、女として好きな男が自分だけを見つめてくれていることはこの上なく嬉しい。でも、ユンは普通の立場ではない。この国の王であり、現に彼には王妃を初め他の妃たちもいる。
なのに、彼が明姫ばかりを寵愛していては、余計な揉め事の原因にもなるし、明姫が若き王を色香で籠絡し自分に引き止めておこうとしているのだと痛くもない腹を勘ぐられるもとにもなる。
いや、別に明姫自身は誰にどう思われたとて構いはしないけれど、後宮内の揉め事が王であるユンの不甲斐なさや好色さのせいのように言われるのは耐えられなかった。
「今朝はお顔の色が優れませんね」
背後で声がして、明姫の物想いは中断された。
「そうかしら」
淡く微笑むと、女官の香丹(ヒャンダン)が大真面目な顔で頷いた。洪香丹はかつて明姫が女官であった時代からの親友でもある。人付き合いがあまり得意ではなかった明姫の数少ない友達といえる存在だった。
明姫と違って陽気で姉御膚の香丹とは性格も対照的だ。だから、かえって意気投合できたのかもしれない。ヒャンダンは明姫が王の側室として宮殿に戻ってきてからは、明姫付きの女官となった。それは明姫自身のというよりはヒャンダンの望みであり、また誰か明姫の気心知れた女官を側に置いてやりたいというユンの配慮でもあった。
明姫にとって、戻ってきた後宮がどれだけ針の筵であるか。ユンは誰よりそれを理解していた。自身の母である大妃は権高で何より、身分を重んずる女性だ。女官上がりの両班とはいえ、さして力のない家門の娘を側室として迎えることには端(はな)から異を唱えていた。
今は明姫が例の領議政に殺害された捕盗庁の副官の娘である―と大妃が知らないことが、せめてもの救いではあった。
この先、大妃の毒牙がいつ明姫に向けられるやもしれず、そのためには明姫の味方となってくれそうな存在は一人でも彼女の側に多くいた方が良い。
「夢を見たの」
「夢―」
明姫の言葉に、ヒャンダンは言葉を詰まらせた。
「また、あの夢ですか?」
正面に置いた鏡台に、背後のヒャンダンの顔が映っている。明姫は微笑んだ。
「そう」
あの夢、十年前に家族や屋敷を丸ごと飲み込んだ紅蓮の焔。明姫はこの十年間、定期的にあの夢を見てはうなされてきた。
もちろん、明姫が副官の娘であるというのは秘密だから、ヒャンダンにも詳しい事情は告げていない。しかし、時折、燃え盛る焔の夢に責めさいなまれるのだということは、女官であった頃にヒャンダンには打ち明けていた。
「お労しい」
ヒャンダンがゆっくりと首を振るのに、明姫はわざと明るい声音で言った。
「心配してくれて、ありがとう」
ヒャンダンが眼を瞠る。
「私は幸せだわ。ヒャンダンのように頼もしい友達がいつも側にいてくれるのだもの。百万の味方を得た気分よ」
「淑媛さま(スクウォンマーマ)はいつまでもお変わりありませんね」
鏡の中のヒャンダンもまた笑っている。
「私が? 変わらない?」
「はい。女官の頃と同じですわ。淑媛さまは人を身分や立場で決めつけたり差別したりはなさいませんもの。私が常民(サンミン)の娘だとお知りになっても、淑媛さまの態度は全然お変わりになりませんでしたから」
女官の多くは下級両班の娘が多い。中には常民の娘が稀にいて、そういう場合はやはり両班出身の者たちから一段格下に見られる場合が多かった。
「あなたはいつも堂々として、誰よりもよく働いて他人の嫌がる仕事でも率先して引き受けていたでしょう。私はそんなヒャンダンに憧れていたの。私は思うのよ。立場が人を決めるのではなく、その人がどういう風に考え生きているかがその人自身の価値を決めるのだと。あなたは誰よりも立派な女官だわ」
「そんな風に思って頂けるお方にお仕えできて、私は幸せです」
ヒャンダンはまた微笑み、問いかけた。
「白粉(おしろい)と頬紅をいつもより少し濃くしておきましょうか? そうすれば、お顔の色をわずかなりとも明るく見せられますわ」
「ありがとう。それでは、そうしてちょうだい」
明姫の言葉にヒャンダンは頷き、明姫のつややかな白い膚に丁寧に白粉を乗せてゆく。陶磁器のようになめらかな膚は普段は特に白粉など付けなくても十分に美しい。
化粧を終えた後は、漆黒の長い髪をやはり丁寧に梳り、一つに編んでから後頭部で纏める。宝石箱の中からその日の衣装に合う簪を選び、髷(まげ)に挿して支度は終わる。明姫の今の身分は淑媛といって、側室の中では一番下ではあるが、国王の寵愛を一身に受ける今を時めく妃の宝石箱の中には豪奢な簪(かんざし)や指輪、ノリゲなどが溢れている。
いずれも当代一の細工師が丹精した逸品ばかりで、国王から贈られたものだ。簪にもノリゲにも惜しみなく高級な玉(ぎよく)が使われている。
だが、この王の熱愛する妃は至って無欲だった。王はこの若く美しい妃を殊更派手やかな衣装や装飾品で飾り立てたがったけれど、明姫自身はあまり華美な装いを好まない。そのため、折角贈られた衣装や装飾品も実のところ、あまり出番がない。
とはいえ、ユンを落胆させないためにもとヒャンダンに言い諭され、気が進まない中にも、贈られた華やかな衣装に身を包み、たまには高級な宝飾品を身につけていた。
今日の装いは落ち着いた黄色の上衣に、深緑のチマである。チョゴリにもチマにもそれぞれ花紋が金糸や華やかな色糸で刺繍されたり織り出されている。王に贈られた衣装の中では比較的地味な方だ。
が、十六歳という開きかけた花のような明姫には、かえってこういう落ち着いた抑えた色目がよく似合い、清楚な美貌を際立たせていた。
化粧の後はヒャンダンに手伝って貰って衣装を着て、これで漸く朝の身支度が終わった。上衣の前紐にノリゲを結びながら、ヒャンダンが笑う。
「殿下はこれまでにも数え切れないほどの高価なノリゲを淑媛さまに下さいましたのに、何故、いつもこのノリゲばかりなのですか?」
明姫はたった今、つけたばかりのノリゲに愛おしげに触れた。それは灰簾石(タンザナイト)のノリゲだ。ユヌが明姫と知り合ってまもなくの頃、下町の露店で買い求め贈ってくれたものである。
もちろん、今、宝石箱に溢れんばかりのノリゲたちとは比べようもないほどの安物だけれど、明姫にとっては大切な想い出の品であった。
作品名:何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】 作家名:東 めぐみ