小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】

INDEX|34ページ/126ページ|

次のページ前のページ
 

 生まれながらに王となるべく生まれたユン、彼は若くしてその肩に重すぎるものを背負った。まだ遊びたい盛りの歳で王となり、この国の未来をその細い肩に背負わされたのだ。
 それでも、ユンはその運命から逃れようとはしない。強く、どこまでも前向きに運命を受け容れて自らに課せられた責任を全力で果たそうとしている。
 だけど、そんな彼の生き方を理解はできても、私は受け容れられない。私は王妃になるべく育てられたわけではないのだから。
 明姫はユンの腕を振りほどいた。
「さようなら」
 ユンの顔を見ないで別離の言葉を告げた。大好きな彼の顔を見たら、また心が揺れて?さよなら?が言えなくなる。
「―それが明姫の応えなのか? 私たちは本当にこれでもう最後なのか」
 彼の声がかすかに震えていた。もしかしたら、彼も泣いているのかもしれなかった。ユンの綺麗な顔が哀しげに歪んだのが、この時、うつむいた明姫には見えるような気がした。
 明姫はそのままユンの顔をついに見ることなく、走り去った。

 自室に戻った明姫は床に突っ伏して泣くだけ泣いた。これだけ泣いてもまだ涙が出るのが不思議なほど泣いた。あまり泣いてばかりいると、身体中の水分がなくなって、干からびてしまうのかもしれないなどと、馬鹿なことを考えたりしながら。
 いっそのこと、それも良いかもしれないと思う。ユンがいないこの世で生きていても、愉しくも何ともない。だからといって、いざとなると死ぬ勇気もないのだから、つくづく自分は情けない人間なのだろう。
 どれだけの時間が経ったのか。いつしか泣きながら眠っていたようで、目覚めたときは既に黄昏時だった。障子窓を通じて蜜色の陽光が床に差し込んでいる。窓に填った格子模様がそっくりそのまま床に模様を描いていた。
 訳もなくその床にできた格子模様を指でなぞっていると、廊下の向こう側から秘めやかな声が聞こえた。
「明姫、起きているのか?」
 崔尚宮の声である。明姫は慌てて居住まいを正した。乱れた髪を手でささっと直す。
「はい」
 応えると、ほどなく扉が開き崔尚宮が入ってきた。
「一刻ほど前に覗いたら、よく眠っているようだったから」
 また出直してきたということだろう。
「申し訳ありません」
 慇懃に頭を下げると、崔尚宮が溜息をついた。
「そなた、また騒動を起こしたようだな」
「―」
 応える言葉もなくうなだれていると、崔尚宮が笑った。
「そのことについては、心配は要らない。国王殿下おん直々のお声がかりで、こたびの件は不問に付されることになった。しかしながら、あれだけの衆目の手前、そなたをお咎めなしとすれば、中殿さまのご威光にも拘わることになるゆえ、そなたは自室で三日間の謹慎ということにあいなる。まあ、骨休めと思うて、この際ゆるりと致せば良い」
 つまりは、事実上、お咎めなしということだ。今更ながらに、ユンの国王という地位と立場の強さを思い知らされた瞬間だった。
 それにしても、あれほど怒り狂っていた大妃がよくも納得したものだ。たとえ国王といえども、なかなか一筋縄ではいかない大妃である。
 明姫の想いが伝わったのか、崔尚宮が微笑んだ。
「このたびばかりは、国王殿下が引き下がられなかったのだ。大妃さまは相変わらずご立腹のご様子だが、母君さまとはいえ、殿下がお決めになったことなら、大妃さまでも覆せぬゆえな。恐らく殿下が大妃さまにこうまであからさまに逆らったのは初めてのことと、朝廷でも後宮でも大変な噂になっているそうな」
「そう、なのですか」
 ユンがそこまでして―大妃と対立してまで庇ってくれたのは嬉しい。だが、それで現実が変わるわけではないのだ。
 明姫がうつむいていると、崔尚宮が側に寄り、そっと抱き寄せられた。
「可哀想な小姫」
 身体をすっぽりと包み込む温もりに、また涙が溢れる。
「泣きたければ、好きなだけ泣きなさい」 
 こういうときは、いつもは厳しい上司が本当は血の繋がった伯母なのだと実感できる。六歳で死に別れた実の母はもう顔さえ思い出せないほど、記憶は朧になった。崔尚宮こそが、明姫にとっては母であった。
 後宮に上がったばかりの頃、崔尚宮は内緒で明姫を自室に呼んで一緒に眠った。夜半に例のあの夢―紅蓮の焔に飲み込まれる夢を見て泣いて起きた時、伯母はいつも幼い明姫を腕に抱いて髪を撫でてくれた。 
 そう、丁度今のように、抱きしめ、髪を撫でてくれたのだ。
―小姫。怖がらなくて良いのですよ。
 優しく頬ずりしてくれた記憶は今も鮮明に残っている。
 そういえば、ユンは言っていた。
―大勢の家庭教師や高価な玩具よりも、母の温もりが欲しかった。ただ抱きしめて頬ずりをして欲しかった。
 思えば、実の母が身近にいながら、ユンは母を失った明姫よりもはるかに孤独で淋しかったのかもしれない。明姫にはまだしも伯母がいてくれた。だが、ユンには誰もいなかったのだ。
 桜草の咲き乱れる殿舎に住んでいたお妃は、世子が懐きすぎたという理由で大妃の嫉妬と怒りを買い、憎まれた。ユンはその出来事を王から聞いた話として明姫に話したけれど、あれはユン自身の体験談だった。
 実の母から与えられなかった愛情をユンは別の女性に求めたのだ。ユンがその女性を慕ったため、彼女は大妃からいじめ抜かれ、やがて自ら生命を絶つという哀しい末路を辿った。
 自分が一途に慕ったお妃が実の母に殺されたも同然だと知った時、ユンは何を思い考えたのだろうか。小さな胸を痛めたに違いない。優しい彼のことだから、泣いただろう。
 まだ幼い王子が一人、誰もいないあの殿舎で泣いている姿が見えるようだ。
 王たる者は孤独だと聞いたことがある。どんなに大勢のお付きの者に囲まれていても、常に玉座に一人で座っていなければならない。ユンは幼いときには母の愛を欲しても与えられず、長じては王として常に孤独であらねばならなかった。
 王として生まれて、幸せだと思ったことがかつて一度でも彼にあったのだろうか。そして、そんな彼の悲哀と孤独を心から理解している人が、この宮殿には一人でもいるのだろうか。
 これからもずっと彼はたった一人で生きてゆかなければならない。そんな彼のことを考えると、あれほど手酷く騙されたというのに、何故か心が痛む。
 一体、自分はどれだけお人好しで、どれだけ彼を愛しているのだろう。いまだに彼を嫌いになれないとは。
 明姫が想いに沈んでいると、崔尚宮が静かに言った。
「あの服(チマチヨゴリ)をそなたに賜ったのは殿下なのだ」
 伯母の腕の中で明姫は弾かれたように面を上げた。
「伯母上さまはご存じだったのですか?」
 崔尚宮がそっと頷いた。
 何ということだろう。伯母は知っていたのだ。あの華やかなチマチョゴリの贈り主が国王イ・ユンであることも何もかもを。
「何故、教えて下さらなかったのですか? 私だけが何も知らずにいたのですね」
 この場合、咎めるような声になってしまうのは致し方ない。
 崔尚宮は哀しげに微笑んだ。
「殿下のお気持ちを察して差し上げて。そなたを大切に思うからこそ、真実をどうしても伝えられないのだと仰せだった」