小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】

INDEX|33ページ/126ページ|

次のページ前のページ
 

 元々、明姫は後宮で一生を終えるつもりであった。このまま真面目に勤務していれば、いつかは自分でも尚宮になれるかもしれない。今はせめて女官としての出世でも夢見て自分を奮い立たせるしかなさそうだ。
 そう思う傍ら、また別の想いが湧き上がってくる。そんなのは違う。私の夢見たのは女官としての職歴(キヤリア)を積むことなんかじゃない。いつもユンの隣にいて、彼の笑顔を見てその夢を応援することだった。
 馬鹿な私。これほどまでに酷い現実を突きつけられてもなお、どこかでユンを諦め切れない自分を明姫は憐れに思った。
 こんなに好きなのに。大好きなのに。私はユンとは一緒に歩けない。彼の隣にいるのは私ではない。綺麗でこの上なく高貴な王妃さまなのだ。
 刹那、先刻見たばかりのユンの笑顔がありありと甦った。王妃に優しく微笑みかける国王の笑顔はまばゆいほどだった。身体が殆ど触れ合わんばかりの状態で和やかに談笑する国王夫妻の姿を遠目に見て、憧れと羨望を抱いたのだ。
 自分も最愛の男とあんな風に寄り添い合い、生きてゆきたいと。
 だが、それはとんだ勘違いだった。美しい王妃に優しい笑みを向けていた国王こそが彼女が恋人と信じていた男であったとは。
 王妃に笑いかけていたユンの笑顔を思い出す度に、心が引き裂かれ血の涙を流すようだ。でも、自分には嫉妬する資格すらない。何故なら、ユンと自分は住む世界が違いすぎるからだ。
 生まれたときから将来は王妃となるべく大切に育てられお妃教育を受けてきた令嬢と、既に実家は絶えたに久しい後ろ盾もない自分。比べること自体がおこがましい。そんな自分が王妃さまに嫉妬するなんて、とんだお笑いぐさではないか。
 自己憐憫に浸るなんて、おかしいと思いながらも、明姫は泣くのを止められない。自分があまりにも惨めで憐れだった。
 とうとう一歩も走れないというまで走って、明姫はその場にくずおれた。チマが汚れるのにも頓着せず、ぺたんと座り両手で顔を覆って泣いた。
「明姫」
 ふいに背後から名を呼ばれた。大好きなユンの声。でも、振り向いてなんかあげない。
「明姫」
 再び呼ばれ、肩を掴まれた。
「放して」
 明姫は泣きながら叫んだ。それでも、ユンは泣きじゃくる明姫を抱きしめてくる。
「済まぬ、許してくれ」
 逞しい腕の中に明姫を閉じ込め、ユンは言った。王衣を纏っている彼の姿を見ていなければ、まだ彼が国王だという現実を信じられないだろう。こうして抱きしめられ彼の声だけを聞いていたら、先刻見たばかりの彼の姿は幻だったのだと、悪い夢を見たのだと思ってしまいそうになる。
「何で騙したの?」
 今更、彼を責めたところでどうにもならないと知りながら、口にせずにはいられなかった。
「騙すつもりはなかった」
 ユンが苦渋に満ちた声で言った。
「頼むから、泣き止んでくれ。そなたが泣くと、私はどうして良いか判らない」
 ユンの途方に暮れた声に、明姫はおずおずと顔を上げた。明姫の泣き濡れた瞳に、ユンが胸をつかれたように身じろぎした。痛みに堪えるような表情でこちらを見ている。
 大好きな男はやはり、蒼の官服ではなく、紅い龍袍を着ていた。五本指を持つ龍が舞う王衣を身につけられるのは世子ではなく、王のみである。
 今の彼の姿が何よりユンは集賢殿の学者などではなく国王なのだと知らしめていた。
「そなたには何と詫びて良いか判らない」
 ユンがポツリと言った。
「そなたを守る、泣かせないとお祖母さまに約束したのに、こんなに哀しませてしまった」
 その言葉に、明姫は微笑した。ユンが初めて実家を訪れたときのことを思い出したのだ。
 この国の王が落ちぶれた両班の老婦人に自ら拝礼し、ひれ伏したのだ。
 お祖母さまは何も知らないから―。もし、後でユンが国王さまだったと知ったら、びっくりして心臓麻痺を起こすかもしれないわね。
 こんなときなのに、笑いが込み上げてしまう。
 だが、あの時既に祖母クヒャンはユンの正体をはっきりとではなくても、おおよそは察していた。そのことを明姫は知らない。
 あの日、クヒャンが一人になって呟いた科白の続きは
―それから、あの鳳凰は黎明の空を飛んでいた。私が見たのは、翼をひろげて明けの空を軽やかに舞う姿だったねぇ。
 明姫の祖母がユンの上に見たのは、夜明け前の橙と群青が入り混じった大空を美しい鳳凰が悠々と旋回する姿だったのだ。
―これから明けようとする空を飛ぶ鳳凰は聖君ソングン(名君、傑出した偉大なる国王)が世に出現する前触れ、即ち瑞兆だもの。やはり、あのお方は―。
 飲み込んだ言葉の続きは、ついに再び紡がれることはなく、占い師の血を色濃く引く祖母は孫娘のゆく末に限りない栄光と悲哀を見たのだ。
 クヒャンの見たものは後に明姫の辿る運命と哀しいほどに一致するのだ。
 明姫の記憶は彼と過ごした一瞬一瞬へと還ってゆく。
 彼はこうも言った。
―そなた一人を一生涯かけて守り、愛し抜くよ。
「あの言葉は、全部嘘だったのね」
 思い出すと、不覚にもまた涙が湧いてくる。
「ユンには奥さんがいたのに」
 彼が国王だと判った今、本当は敬語で接するべきなのだろうけれど、衝撃が大きすぎて行動が現実についてゆけないでいる。
「あんなに綺麗な奥さんがいるのに、私をお嫁さんにするだとか、私一人を愛し抜くだとか、できもしないことを並べ立てて」
「嘘じゃない!」
 ユンの声がふいに大きくなった。
「嘘なんか言ってない。私はあの時、本気で言ったし、今でも、あのときの気持ちと変わらない。中殿とはもうどんなに努力しても解り合えないんだ。だけど、中殿と別れることはできない。彼女は朝廷の大物といわれる領議政の娘だし、私には従姉だ。それに、私が即位した十四のときから夫婦として連れ添ってきた糟糠の妻なんだよ。たとえ形だけの心は離れた夫婦であっても、中殿を無下にはできない」
 その言葉は明姫の心を鋭く刺し貫いた。
―私が即位した十四のときから夫婦として連れ添ってきた糟糠の妻なんだよ。
 心が通っていないなどと言いながら、王妃を糟糠の妻と呼び、無下にはできないと言う彼が恨めしく憎かった。
「私が心にただ一人の女と決めたのは、そなただけなんだ。それだけは信じてくれ、明姫」
「勝手なことばかり言わないで。まだ、そんなことを言うの? 私だって、あなたに言ったはずよ。大勢の女の人と、たった一人の男をめぐって争うのも愛を分け合うのも私はいやなの」
「だが、私は国王だ。たとえ心がそなた一人を求めたとしても、心のままには生きられない。私だって、それが許される立場なら、とっくにそうしていたよ。今だって、王の位なぞ誰でも欲しければ、くれてやっても良い。名もないただの男として、そなたを妻として二人だけ市井でひっそりと生きてゆきたいと願っている」
 ユンが振り絞るように言った。
「私にはできないんだ。私が王位を投げ出せば、誰が王となる? 王族の男子を立てて新しい王とすることは容易いだろう。でも、それをすれば、私はこの国と民を自ら棄てることになる。たとえ不甲斐ない王であっても、ひとたび玉座につけば、国と民の父なんだ。私を信じている民を裏切ることは私にはできない」