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何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】

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 その声があまりに優しげなものだったので、明姫は涙が出そうになった。この場で皆が明姫に冷たいまなざしを注ぐ中で、たった一人、優しさを見せてくれたのが至高の存在であるはずの国王だった―そのことは、大きな愕きでもあった。
 と、明姫はふと違和感を憶えた。それは違和感というよりは、予感と呼んだ方が良かったかもしれない。そんなことがあり得るはずもないのに、王の優しげな声音に、どこか聞き憶えがあるような気がしたのである。
 何かが閃いた。この深い声は、この声の持ち主は。ハッとして顔を上げた彼女の瞳に映じたのは、その声の主にふさわしい優しげで美麗な面立ちをした青年王だった。
 そんな、馬鹿なことがあるはずがない。明姫は我が眼を疑った。だが、少し離れた前方、天幕の中に設けられた国王の御座所に端座しているのは、紛れもなくユンその人であった。
 刹那、明姫は我が身の迂闊さを知った。李胤(イ・ユン)、その名が当代の若き国王と同じものであると、どうして思い至らなかったのだろう。
 だが、自分の恋した男がよもやこの国を統べる王であるとなど誰が考える? 平凡な娘、下級女官にすぎない自分の想い人が国王だなんて、誰が信じる?
 私が十五年の人生で初めて好きになった男は、この朝鮮国の王だった―。信じがたい衝撃がやっと哀しい現実として認識できた刹那、明姫の大きな瞳から、はらはらっと涙がこぼれ落ちた。とめどなく溢れる涙は地面を濡らし、黒い滲みを点々と作る。
 二人で寄り添って肩を並べて歩いた都の大通り、隠れ家で、まるで無邪気な子どものように膝枕をねだってきたユンの屈託ない笑顔。更に人気のない殿舎で明姫を情熱的に求めてきた彼の熱っぽい視線や明姫の身体中をまさぐった悪戯な指。
 それらの彼との大切な想い出の一つ一つが物凄い速さで甦り、遠ざかってゆく。
―私は生涯かけて、そなただけを愛し守り抜くよ。
 耳許で力強く響いたユンの声。真摯な表情で告げた誓いの言葉もすべては偽りにすぎなかったというのだろうか。
 自分が惚けたように王の顔を見つめていたことに気づき、明姫は慌てて顔を伏せた。間違っても、国王殿下と拘わりがあるなどと周囲に知られてはならない。今日ここで犯してしまった失態だけでも十分すぎるほどなのに、この上、国王と恋を語っていたなどと露見すれば、どれだけ窮地に追い込まれるか。
 幾ら明姫でも、今の自分の立場の危うさは十分に理解できた。
 明姫はもう一度地面に額をこすりつけると、そのまますごすごと御前を下がるしかなかった。

 明姫が逃げるように去った後、ユンはひたすら放心したように座っていた。
 あり得ないことだと思った次の瞬間、ひしひしと後悔が押し寄せた。
 いいや、あり得ないことなどなかった。明姫が後宮に仕える女官だと自分は十分すぎるほど知っていたのだ。どれほど宮殿が広大であろうと、同じ敷地内に暮らしているのに、何故、明姫と遭遇しないなどと高を括っていたのか。
 明姫に甘い言葉を囁き、無理に押し倒して陵辱しようとまでしながら、自分は彼女に対して誠意を見せようとはしなかった。むろん、彼女に対して口にした言葉は真から出たもので、嘘は一つも含まれていない。
 正妃である王妃とは形だけの夫婦だ。中殿が中宮殿にいる限り、明姫を正妃に迎えることはできないが、それでも、王妃に準ずる側室としては最高位の嬪の位を贈り、事実上の正室としての扱いを与えようとまで考えていた。 
 しかしながら、そのためにはまず大妃を説得しなければならない。明姫に告げた話はまったくの真実であった。彼は国王なのだ。ゆえに、彼が明姫を一途に求めるのであれば、その一存で彼女を後宮に召し上げることもできる。
 が、国王という立場と権威を行使して明姫を側室に迎えれば、明姫自身の立つ瀬はない。王を色香で誑かした、けしからぬ女と皆が寄ってたかって彼女を非難し攻撃するに違いない。そうさせないために―明姫を守るためには、できるだけ強行突破せずに穏便な形で明姫を後宮入りさせる必要があった。
 それには時間はかかるかもしれない。でも、その方が後々のことを考えれば、最も望ましいのだと自分に言い聞かせ、早く明姫を自分のものにしてしまいたいという欲望を抑え、ひたすら彼女恋しさに堪えてきたのである。
 だが、それは所詮、彼側の言い分にすぎない。明姫から見れば、結局は信じていた恋人に手酷く裏切られただけのことだ。彼女にとって、自分はさぞ不実な酷い男に思えるだろう。いや、実際、そう思われたとしても仕方ないだけのことを自分は彼女に対してした。
 言い訳はできないのは判っていた。
 可哀想に、明姫は泣いていた。あの涙は中殿の花を折ってしまったという失態によるものではない。信じていた恋人に裏切られた烈しい衝撃によるものだ。
 自分は何という酷い仕打ちを彼女にしたのだろう。あんなに一途に自分を信じようとし、精一杯の優しさと誠実さで応えようとしてくれた彼女の真心を土足で踏みにじったのだ。
―明姫。
 ユンは立ち上がり、心で最愛の女の名を呼ぶと、脇目もふらずに走り出した。
 その場に居合わせた誰もが眼を疑った。血相を変えてその場からいなくなった国王をあたかも信じられないものでも見るような顔で見送っていた。
 殊に、そのときの大妃の度肝を抜かれたような表情は見物だった。更に、美しい王妃の花のかんばせが一瞬、鬼のように様変わりしたことも。

 明姫は泣きながら走った。どこをどう走ったのか判らない。とにかく今は、できるだけ彼から離れたかった。
 今でもまだ信じられない。蒼い官服を着たユンは見慣れているけれど、王衣を纏ったユンなんて、想像したこともなかった。国王と世子のみに許される龍袍(りゆうほう)に身を包み、威風堂々としていたユンはいつもにもまして凛々しく格好良かった。
 国王殿下はすごぶるつきの美男。後宮では王の顔を見たことのない下っ端女官まで皆、そう囁いていたし信じていた。
 だが、どうやら、その噂は真実だったらしい。
 ユンはどんな男よりも綺麗で男ぶりも良いもの。そこまで考えて、明姫は自分で自分を嘲笑った。何て愚かな女! ここまで徹底的に騙され、裏切られたのに、自分はまだ彼をそんな風に思えるのか。
 もう、おしまいだ。すべては終わったのだ。明姫は涙を流しながら、ユンを恨むまいと思った。自分が愛したイ・ユンと国王殿下はまったくの別人だったのだ。
 ユンは私に最高の素敵な想い出と時間をくれた。私の恋人だった男は今日を限りに消えて、いなくなったのだ。私が今日、見たあの美しい国王さまはユンではない。
 そう思うことで、何とか今の絶望的な状況を乗り切るしかなかった。
 泣いちゃ駄目。泣いたって、現実は何も変わらない。ユンが見せてくれたのは束の間の美しい幻であり夢だった。夢はいつか必ず醒めるときがくる。
 夢が終われば、待っているのは現実。現実から眼を背けるのは不可能なのだし、これからユンのいない現実を受け容れて前に向いて進むしかない。