何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】
「あそこのとりわけ見事に花開いておる牡丹を数本伐らせ、中殿に差し上げるのだ」
「かしこまりました」
尚宮は恭しく頭を下げ、すぐに女官に大妃の命を伝えた。大妃が指定したのは、庭園の入り口近くに咲いている牡丹であった。国王夫妻たちからは最も離れた一角である。
そして、そのすぐ側には明姫が控えていた。明姫もまた、急きょ宴の手伝いに駆り出された一人だったのだ。宴が始まるまでは、酒肴の支度や配膳に大わらわで時間が過ぎたが、今は忙しさもひと段落ついた。こうして、やんごとない方々と共に花を愛でる余裕もある。
もちろん、その間も常に何か急な用事はないかと注意を怠ってはいなかったけれど。
尚宮に命じられた女官は入り口近くまで駆けてきて、丁度その場所にいた明姫に声を掛けた。
「大妃さまがこの一角の牡丹を伐って中殿さまに差し上げるようにと仰せだ」
格上の先輩女官なので、当然ながら物言いも横柄である。大妃殿や大殿で働く尚宮や女官はやはり他部署の一般の尚宮・女官たちと比べると、気位が高い、自分たちは上宮に仕えているという意識が強いのである。
「判りました」
明姫は頷くと、すぐに鋏を持ってきて牡丹を伐った。とりわけ見事に咲いている牡丹だけを選ぶ。緋色も濃く花も大ぶりなので、数本束ねただけで豪華な花束になった。
その花束を恭しく捧げ持って上座に向かう。もちろん、今も演奏をしている楽団の背後を回って人眼につかないように移動しなければならない。
いよいよ国王夫妻や大妃の側近くまで来たときのことだった。数本の牡丹の中の一つから、ポトリと花が落ちた。
「―!」
明姫は息を呑んだ。
周囲にいた女官たちも異変に気づき、ひそひそと囁き始める。大妃の後ろに控えていた女官―明姫に花を摘むようにと依頼した―がまず眼を瞠り、その前にいた尚宮に事の次第を耳打ちした。
「何と、中殿さまに献上する牡丹の花冠が取れたと?」
とんでもない失態である。国王夫妻や大妃に知られる前に極秘裏に処理しようと動き出そうとしたまさにその時、大妃が尚宮を振り返った。
「中殿に差し上げる花はまだか?」
「は、はい。ただ今」
尚宮は色を失い、傍らの女官に小声で告げた。
「花冠の取れた花を大妃さまにお見せしてはならぬ。すぐに持ち去り、できるだけ早く代わりの花を用意してくるのだ」
「どうした、何か子細があるのか?」
しかし、大妃も鈍くはない。振り向いた大妃の眼がスウと細められた。美男で知られる国王によく似通った切れ長の眼(まなこ)が妖しく光る。
「その花束を見せよ」
尚宮の咽からヒュッと息が洩れた。万事休す! その場の誰もが一様にそう思った。
「聞こえぬのか。その花束を見せよと申しておる」
その言葉がそも誰に向けられたのかは一目瞭然であった。一同の視線が一斉に明姫に集中する。明姫はその場に立ちすくんだ。あたかも皆の視線が同時に自分に突き刺さってくるような恐怖と圧迫感を憶えた。我知らず身体が震える。
「いかがしたのだ、お前は耳が聞こえないのか? 手に持っている花を見せろと申しているのだ」
大妃が苛立ったように甲走った声を上げた。
最早、これまでと観念したらしい。尚宮が明姫に言った。
「大妃さまにお見せしなさい」
はい、と、明姫はか細い声で応え、両手に捧げ持った花束を前方に掲げた。それは少し離れた場所に座る大妃からも、はっきりと見えた。
忽ち大妃の顔色が変わった。
「これは、いかなることだ! 中殿に差し上げる花に、何ゆえ、花がついておらぬ」
尚宮がその場に平伏した。
「申し訳ございません。私の失態にございます。どうぞ私を死刑に処して下さいませ」
尚宮の側で、明姫もくずおれるように座り、手をついた。
「私はそなたに訊ねておるのではない。これ、その方、お前に訊ねているのだ」
大妃が業を煮やしたのか、立ち上がった。
「朴(パク)尚宮、その者をここに連れて参れ」
朴尚宮が明姫を見た。
「大妃さまがそなたをお呼びだ」
こうなっては明姫を庇いきれないと咄嗟に判断したのだろう。我が身に大妃の怒りが及ばないためにも、明姫の身柄を差し出した方が賢明だと考えたのは間違いなかった。
朴尚宮に引き立てられ、明姫は大妃の御前に進んだ。その場に土下座させられる。数え切れないほどの人が集まる中では屈辱に相違ないが、自分が犯した失敗がどれほどのものか判るだけに、恥ずかしさや情けなさよりも恐怖の方が大きかった。
「お前は今、自分が手にしている花がどのような意味を持つものか判っておるのであろうな。何故、そのような失態となったのか、それを我らに納得できるように説明するが良い」
詰問する大妃の側で、王妃は蒼白になっている。その時、一触即発の張りつめた空気を場違いな声が震わせた。
「何もしていないというのに、花冠ごと落ちるとは、また何と不吉な」
誰もが非常識というよりは、愚かすぎる発言者の方を見た。
ウォッホン。領議政ペク・ヨンスが不自然な咳払いをし、まだ何か言いたげなユン昭儀は慌てて口をつぐんだ。
「早く理由を申せ」
ユン昭儀の馬鹿げた発言が大妃の怒りを余計に煽ったのは言うまでもない。しかも、その怒りはユン昭儀ではなく明姫に向けられるのは必然であった。
「お前は口がきけぬのか! ええい、腹立たしい小娘だ。この私に問われて、言葉も発さぬとは」
大妃が喚いた。
「誰か、鞭を持って参れ。この不心得者をこの場で見せしめに鞭打ってやろう。朴尚宮、鞭だ、鞭を持ってくるのだ」
怒りに任せて喚き散らす大妃、狼狽える朴尚宮、つい今し方まで和やかだった宴の席は、さながら修羅場と化した感があった。
「朴尚宮、何を愚図愚図しておる」
烈火のごとく怒った大妃が一喝したのと、凜とした声が響き渡ったのはほぼ時を同じくしていた。
「母上、しばしお待ち下さいませ」
怒り狂った大妃が唖然として横を見た。
王が穏やかな声音で言った。若い王は怒りまくる母とは対照的に、この緊迫しきった場におよそ似つかわしくない落ち着いた様子を見せている。
「中殿に献上する花は確かに大切なものではありますが、たかが花一つで、そこまで大騒ぎするほどのこともないのでは? その者の落ち度は落ち度として、処罰は直属の尚宮に任せてはいかがでしょう。折角の花見の宴を些細なことで台無しにしては勿体ないと私は思うのですが」
王は大妃を宥めるように言い、平伏する明姫に向かって続けた。
「盛りのときに花が落ちることも珍しくはない。偶然の出来事をそなた一人のせいにするのも不憫ゆえ、今日のところは大事にならぬように取り計らう。そなたは早急に自室に戻り、これからの沙汰を待つのが良かろう」
はい、と、消え入るような声がかすかに聞こえたかに思えた。
たかが下っ端の女官風情が畏れ多くて、到底竜顔を見られるはずがない。明姫はただ震えながら両手をつかえ、額が地面にこすれんばかりに頭を下げているのが精一杯であった。
「そなたはもう、下がりなさい」
明姫がこれ以上、ここに居続けても、かえって大妃の怒りを煽るだけだと考えたのか、王は優しい声音で言った。
作品名:何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】 作家名:東 めぐみ