何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】
明姫は頬を流れ落ちる涙をぬぐいもせずに続けた。
「なのに、ユンはそんなに優しい眼をしてる。淋しかったはずなのに、いつも誰にでも優しい。私、ユンの夢を応援するから。あなたがさっき話してくれた―誰もが幸せに暮らせる身分差のない国を作るっていう夢を応援する。ずっと、あなたの側にいて、私にできることがあれば手伝わせて」
「明姫」
ユンが泣いている明姫を引き寄せた。
「私は今、幸せだよ。こうして、生涯にただ一人の想い人にめぐり逢えた。そなたはいつもただ私の側にいて、笑っていてくれれば良い」
「ユンが膝枕をして欲しいと言ったのは、そのせいだったのかもしれないわね」
「え、何が何のせいだって?」
ユンには今の呟きが聞こえなかったようだ。明姫は微笑んだ。
「良いの。ただのひとりごとだから。ね、膝枕してあげるから、横になって」
「そうか、明姫がそんな殊勝なことを言うのは滅多にないだろうからな」
ひとこと余計なことを言い、ユンは明姫の膝枕でごろりと横になった。
「うーん、最高だ。惚れた女の柔肌に抱かれて眠りに落ちるこの瞬間が堪らんなぁ」
そんなことを言うから眠るのかと思ったら、ユンはぱっちりと眼を開いている。
「やあね。そんなに真下から見ないでよ」
明姫が居たたまれずに言うのに、ユンは悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「いや、綺麗だなと思ってさ、私の嫁さんは」
彼の直截な褒め言葉には一向に慣れそうにもない。頬から火を噴きそうだ。
「何を言ってるんだか」
照れ隠しに早口で憎まれ口を言った。
「そのチマチョゴリ、よく似合ってる。とても綺麗だ」
どこの誰が贈ってくれたかも判らない今日の衣装を手放しで褒めてくれる。
「ねえ、一つだけ訊いても良い?」
「何だ?」
心なしかユンの声が少し固くなった。また、彼の正体云々の話をされると警戒したのかもしれなかった。
だが、明姫はまったく別のことを口にした。
「この間、色町を通ったでしょう」
「ん? 色町―」
意外なことを言われ、ユンは完全に拍子抜けの顔である。
「月琴楼とか見世の名前も出ていたけど、ユンはあんなお見世によく行くの?」
「ははーん、さては明姫、妬いてるな」
ユンはひどく嬉しそうだ。あまりに嬉しそうなので、明姫は悔しくなった。
「誰が妬くもんですか! あなたがどこの妓房に行こうが、あなたの勝手でしょ。私は知らないわ」
つんと顎を逸らすと、くくっと噛み殺した笑いが聞こえてくる。
「どこまで可愛くないんだかね」
ユンがそれから幾ら話しかけても、明姫は返事しなかった。しばらくそんな状態が続いて、流石に怒ったのかとユンの顔を覗き込んだ時、彼は既に低い寝息を立てていた。
まるで母親の膝で眠っているような、安らいだ安心しきった表情を見ている中に涙がまた溢れてきた。
―ただ母に抱きしめて頬ずりして貰えれば、それで十分だった。
あのときのユンの切なげなまなざしや振り絞るような口調が哀しかった。彼が何故、自分に膝枕をさせたがるのか、今日やっと、その理由が判った。
ユンも明姫の知らない部分を見つけたと言っていたけれど、明姫自身、彼の隠れた脆い部分を見たような気がする。
「大好きよ」
明姫はいつまでもユンの顔を見つめていた。この世でたった一人の恋しい想い人の寝顔を。それはまるで本当の新婚夫婦のような微笑ましい光景だった。
結局、その日、二人ともに、ユンの素性については話さなかった。明姫も何度も訊ねかけて、言葉を飲み込んだ。正直、怖かった。
色々と考えてみても、ユンの正体について、最も可能性がありそうなのは領議政ペク・ヨンスの息子ではないかという線だった。既に彼が領議政の血縁であり、最も近しい甥という立場であるのは知っている。
だが、甥ではなく、息子なのだとしたら?
そのときも自分は彼を今までどおり愛せるだろうか? 領議政は九年前、明姫の両親や弟を火事に見せかけて殺した憎い宿敵なのだ。その息子もまた明姫にとって仇であることに変わりはなかった。
もし、本当は領議政の息子だなんて言われたら、ユンとはもう一緒にいられない。そう考えたら、到底、彼の素性について問いただせられるものではなかった。いざ問おうとしても、言葉が塊のようになって喉元につかえて出てこないのだった。
それから四日が過ぎた。その日、大妃殿は早朝から色めき立っていた。というのも、今日は昼前から大妃主催で花見の宴が行われるからだ。もっとも、宴といっても、ごく内輪のもので、招かれたのは若き国王夫妻、この度、入宮したばかりの新しい側室尹(ユン)昭儀、王妃の父であり現在、朝廷の第一人者領議政ペク・ヨンスのみである。
ユン昭儀は言うまでもなく領議政の養女格として入宮しているから、大妃側の人間と見なされている。
何事につけても華美を好む大妃は、緋牡丹を殊の外愛し、大妃殿の庭には至る所に牡丹の花が植えられていた。今日は満開になった牡丹を内輪の親しい者たちで集い愛でようという趣向のものだった。
内輪の宴といっても、若い国王や王妃、更には飛ぶ鳥落とす勢いの領議政など錚々たる顔ぶれである。大妃殿の女官たちは普段、気難しい大妃の顔色ばかり窺って過ごしているため、この日ばかりと皆、それぞれに化粧にも余念がない。
万が一にも国王の眼に止まり、お手つきにでもなろうものなら、やがては側室、王の御子の生母ともなれる立身出世の道が拓かれるかもしれない。当代の国王直宗には、まだ一人の御子もいない。ゆえに、目下、王妃初め二人の側室の中の誰が王の第一子をあげるかという大問題が注目されている。
とはいえ、中殿と呼ばれる王妃は既に婚儀を挙げてから七年を経ている。その間、一度も懐妊の兆候はなく、心ない者たちは
―中殿さま(チュンジョンマーマ)には最早、お子がおできにならないのではないか。
と、王妃を石女扱いしている向きもあった。
が、王妃はまだ二十二歳の若さである。国王より一歳年長とはいえ、まだまだ懐妊の可能性は棄てきれない。
王には更に半年前に迎えたばかりの側室たちが二人いるが、いずれもまだ懐妊はしていない。―と、表向きは少なくともそういうことになっている。しかし、内実はというと、若き王はまだ一度もこの二人の側室たちの許に渡ってはいない。逆に彼女たちが王の寝所に招かれたこともなかったから、懐妊しないのは当然といえば当然なのだ。
では、王妃との夫婦仲はといえば、けして良いとはいえなかった。王自身はそれでも王妃に歩み寄ろうとしているのだけれど、何しろ、王妃は気位が人一倍高く、良人である王を弟扱いしている。また何かにつけては実家の威光を持ち出し、王妃の父領議政は態度だけは若い主君に対して慇懃なものの、その実、王を?ペク家の婿扱い?してはばからない。
美しい王妃は美男の王と並べば似合いの夫婦であるのに、何故か二人の間に漂うのはよそよそしい空気であった。そのため、大妃殿の若い女官たちの間では、
―国王さまと中殿さまはご夫婦というよりは、厳しい姉と遠慮ばかりしている弟のようだ。
と、しきりに噂されていた。
作品名:何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】 作家名:東 めぐみ