何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】
「まあ、な」
ユンはしばらく唖然と明姫を見つめ、鶏肉の蒸し焼きを手にした。自分が食べるのかと思いきや、手でむしって小皿に取り分けている。
「ほら、今度はこっちだ」
箸で摘むと、明姫の口に運んでやった。
「美味しい」
明姫はユンに食べさせて貰い、ご機嫌だ。
「美女にご馳走とくれば、やはり、これがなくては」
ユンが出してきたのは、何と酒だった。
明姫は眼を剥いた。
「愕いた。一体、いつどこで買ったの?」
「ふふん、ユンさまを甘く見てはいかん」
ちゃかりと安物の酒を調達していたようである。
「少しだけなら良いだろう」
ユンは杯を二つ持ってくると、一つには手酌でつぎ、明姫にもついでくれた。
「そなたも呑んだら、どうだ?」
「昼間からお酒なんてねぇ」
やはり、明るい中からの飲酒には抵抗がある。
「そなたの酔ったところを一度見てみたいな。酔わせてみれば、いっそう色っぽくなるかも」
ユンの手が伸びてくる。
「明姫の身体はやわらかい」
その手が腰から尻にかけてそろりと撫で上げたので、明姫はピシャリと叩いてやった。
「今はまだお昼なのよ」
「そなたはやけに昼に拘るな。ならば、夜なら良いのか? では、今夜また、二人きりで過ごすのも良いな。そなたさえその気なら、祝言よりも前に深間になっても私は一向に構わないぞ?」
と、また不埒な手が伸びてこようとしたので、明姫はまた軽くその手を叩いた。
「まったく、油断も隙もない助平ね、ユンは」
「助平とは酷い物言いだ。傷ついた、生まれて初めて女から助平と言われてしまった」
それからしばらくユンは一人で酒を飲んでいた。食べる物は食べずに、ひたすら杯を傾けている。もしかしたら、ユンは存外に酒豪なのかもしれなかった。世の中には幾ら呑んでも酔わないという奇蹟のような人間がいるものだ。
現実として、今の彼は既に買ってきた酒瓶を殆ど空にしてしまっている。が、ユン自身は殆ど素面のときと変わらない。辛うじて眦が少しだけ紅く染まっていて、それが紅を眼許にはいたようにも見えて、凄く色っぽい。
男の色香というものが迫ってくるようで、元がかなりの美貌だけに凄艶ささえ漂っている。
「明姫」
改めて名を呼ばれ、彼にすっかり心奪われていた明姫は慌てた。
「はい?」
その拍子に鶏肉を喉に詰まらせて、むせている。ユンが盛大な溜息をついた。
「とりあえず話より水を飲め」
水の入った椀を手渡され、一息に飲み干す。
「ああ、助かった。死ぬかと思った」
ユンが声を立てて笑う。
「今日は知らなかったそなたの一面が色々と見られて興味深い」
「で、何の話なの」
明姫が話を振るのに、ユンは頷いた。
「お祖母さまのことだ」
「そのことなら話は済んだ。もう良い」
「良くない」
ユンは、二個目の揚げパンを取ろうとした明姫から、さっと取り上げた。
「あっ、私の揚げパン」
「きちんと話をしたら、揚げパンは返してやるから」
明姫はむうと頬を膨らませた。
「まるで子どもだな」
ユンは明姫の頬をいつものようにチョンとつつき、また笑った。
「お祖母さまをもう少し大切にしろ。それから、目上の方にはもっと敬意を持って接しなければならない。後宮に長年いるそなたがそれを判らぬはずはないと思うが」
「そこまであなたに指図される憶えはないわ。あの人はいつもああなのよ。相手が誰であろうと、よく考えもせずに言いたいことをぺらぺらと話すの。尊敬なんて、できない」
プイと顔を背けた明姫にユンが強い口調で言った。
「良い加減にしないか、それがお祖母さまに言う科白か?」
「だって、あの人は」
「あの人などという呼び方は止めるんだ。ちゃんとお祖母さまと呼ぶんだ」
きつい口調で言われ、明姫は渋々?判ったから、そんなに怒鳴らないで?と呟く。
「そなたのことを心配されていたぞ」
「誰が」
依然としてあらぬ方を向いたままの明姫である。それでも、ユンの静かな声が心に滲みた。
「お祖母さまに決まってるだろうが」
「あの人―お祖母さまが私のことを心配してた? あり得ない」
ユンに睨まれ、慌てて途中で言い直す。
「そなたが部屋を出ていった後、私に直々に言われた。そなたのことを末永くよろしくと」
「―嘘でしょ」
「私が嘘を言って、何か得があると思うか?」
「ないわね」
「そう思うなら、少しは反省することだな。お祖母さまはこうもおっしゃっていたぞ。明姫は賢くて優しい娘だが、思ったことがそのまま顔や態度に出るから心配なのだと言われていた」
「何、それ。まるでお祖母さま自身のことじゃないの」
明姫がまた膨れるのに、ユンがほっぺたをつつく。
「気安く触らないで」
「私は未来の良人だから、特別にそなたに触れる権利があるんだ」
「変な理屈」
「そなたとお祖母さまはよく似ている。明姫は気づいていないようだがな」
「まさか。冗談言わないでね」
ユンは笑いながら首を振った。
「お祖母さまは若い頃はさぞかし美人だったろう。もちろん今もお綺麗で若々しいけど、昔はあまたの男どもが求婚したのではないか? お祖母さまを射止めたお祖父さまは幸運だ」
明姫が低い声で言った。
「何が言いたいの? くだらない話ばかりしないで」
「そなたは美人のお祖母さまにそっくりだ。十五歳でそれだから、二、三年経てば、花がひらくように艶やかに咲き誇るだろう。私はそなたを花開かせるのが愉しみだよ」
「いやあね。色ぼけた爺ィのようなことを言わないで」
「色ぼけた爺ィか。こいつは良い」
ユンは何がおかしいのか、腹を抱えて笑い出した。
「勝手にして」
明姫は笑っているユンの手から揚げパンを取り戻し、勝手にぱくつき始めた。
「明姫、私はああいうお祖母さまが欲しくても、側にいてくれなかった」
ふとユンが笑いをおさめ、真顔になった。
「私の子どもの頃の話は少ししただろう? 父が早くに亡くなり、母と二人だけだった。その母を私は愛せなかった。母は私に母なりに精一杯の愛情を注いでくれたのだとは理解できたが、母の過剰な愛も愛の示し方も、幼かった私には重すぎた。たぶん、母の愛を受け容れられなかった私以上に、母は傷つき悩んだはずだ」
いつしか揚げパンを握りしめる明姫の手が震えていた。
「何故、私が母の愛を受け容れられなかったか判るかい?」
明姫は首を振ることで意思表示を示した。泣いていることをユンに知られたくなかったからだ。
「母は私が心から望んだ家庭の温もりを与えてくれなかった。膝に乗せて本を読み聞かせたり、手を繋いで庭を歩いたり。そんな何でもないささやかなふれあいを私は欲しかったんだ。何人もの家庭教師や高価な玩具、そんなものは何の価値もなかったよ。ただ母に抱きしめて頬ずりして貰えれば、それで十分だった」
ユンが優しい笑みを浮かべた。
「そんな私から見れば、明姫は贅沢だと思う。帰る家とそこで待ってくれている人がいる。それがどんなに恵まれた幸運なことか、そなたはまだ判っていない」
と、ユンが眼を見開いた。
「どうしたんだ! 泣いているのか」
明姫がしゃくり上げながら言った。
「ユンが可哀想で。私、ユンがそんなことまで考えてたって、全然知らなくて」
作品名:何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】 作家名:東 めぐみ