小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】

INDEX|125ページ/126ページ|

次のページ前のページ
 

 やはり、碗一杯の粥を半分ほどしか食べられない。それでもヒャンダンに励まされてやっと食べたという有様だった。
「ごめんなさい。本当にこれ以上は食べられないの」
 まだ粥が残った状態で碗を側のヒャンダンに差し出すと、ヒャンダンは微笑んだ。
「無理をなさる必要はありませんよ。また、いつものようにたくさん食べられるようになりますから」
 と、いつもは食欲旺盛な明姫をからかうように言う。
「ヒャンダンったら」
 笑い声を立てようとした明姫が腰を押さえ、小さく呻いた。
「痛むのですか?」
 案じ顔のヒャンダンに、明姫は弱々しい微笑を返す。
「まだ陣痛が完全に治まったわけではないから、多少の痛みがあるのは仕方ないわね」
 と、産室の扉が開き、若い女官が入ってきた。あまり見かけない顔だが、今は明姫の出産の瞬間も迫っており、人手が足りないほどだ。ゆえに、他の殿舎からも女官を集めてきており、様々な殿舎の女官が入り乱れている。見慣れない顔が混じっていたとしても、不思議はなかった。
「和嬪さまに煎じ薬をお持ちしました」
 女官はやや強ばった面持ちで小卓に載せた薬湯を恭しく差し出した。
「ご苦労さま」
 ヒャンダンは鷹揚に労をねぎらい、女官はそそくさと部屋を出ていく。
「さあ、精のつく薬ですよ。これを呑んで、これから本番になるご出産に備えなければ」
 ヒャンダンが言うのに、明姫が眉をしかめた。
「この薬は苦すぎるわ」
「まあ、もう直、母君さまにおなりのお方がそのような幼子のごとき聞き分けのないことを仰せになってはいけませんよ」
 ヒャンダンが聞き分けのない妹をたしなめる姉のように言った。
「今日は殿下はいつお越しになるのかしら」
 ふと明姫が呟いた。
「今は大殿でご政務の真っ最中でしょう。昨日も午後からお見えでしたから、今日も同じくらいの時間になるのではないでしょうか。何なら、後で遣いの者を出しても」
「良いわ。特に用もないのに、お忙しいお身体でお越しに頂くのは申し訳ないから」
 いかにも明姫らしい気遣いにヒャンダンは微笑む。
「それでは、この苦いお薬をお呑みになって、殿下をお待ち致しましょうね」
「やだ、ヒャンダンってば、私を完全に子ども扱いしてる」
 明姫も笑いながら受け取った湯飲みを両手に持ち、ひと口含んだ。何だかいつもと味が少し違うような気がする。
 いや、きっと体調が普通ではないから、味覚もおかしくなっているのだろう。苦い薬は少しずつ飲むより、一挙に呑んでしまった方が良い。後で、いつものようにヒャンダンが甘い飴を口直しにくれるだろうから。
 明姫はふた口めからは薬湯をひと息に飲み下した。明姫の白い咽が動くのをヒャンダンは傍らで見守っていた。
「どうしたのかしら、今日はいつになく殿下にお逢いしたいと思う気持ちが止められないの。おかしいわよね」
 薬湯を飲み終えた明姫が呟いたその時、明姫の手からポトリと湯飲みが落ちた。
「うっ」
 明姫が口を片手で押さえた瞬間、コポリと嫌な音を立てて口から鮮血が溢れ出た。
「和嬪さま、和嬪さまっ」
 ヒャンダンが絶叫した。
 その合間にも、明姫は立て続けに大量の血を吐いた。
「何ということでしょう、早うに医師を、医師を呼ぶのだ!」
 鮮血にまみれてぐったりと眼を閉じた明姫を腕に抱き、ヒャンダンは気が狂ったように叫んだ。

 折しもその頃、ユンは大殿から産殿へと向かっている途中であった。ヒャンダンからの知らせを受けたユンは走るようにして産殿に辿り着くや、産室に入った。
「直に典医が来る。気を確かに持つのだ」
 ユンは力を失った明姫の小さな身体を抱きかかえ、懸命に励ました。
 明姫がうっすらと眼を開いた。
「殿下、私の生命はもう尽きようとしております」
 力ない声に、ユンは胸が潰れそうになる。
「いいや、そなたは死なぬ。私が死なせるものか」
 愛妃の生命がそのか細い身体からさまよい出していこうとするのを引き止めるかのように、きつく抱きしめる。
「数ならぬ身が殿下にお逢いし、こうしてお側近くにお仕えすることができ、またとない幸せな生涯でございました」
 それは明姫の嘘偽りのない心からの述懐であった。自分をたった一人の女だと言い、生涯、愛し抜くと言い切ってくれた。そんな男に出逢えた―女として、これほどの幸せがあったろうか。
 そういえば、ヒャンダンとユンが相談して、明姫を宮殿の外で出産させようとしたことがあった。あの時、逃げようと思えばできたのに、自分はしなかった。
 生涯をユンの側で生きると決めたのも、最後に生き残るすべが与えられたときも、この男の傍にいると決めたの自分。すべては自分自身のつかみ取った人生なのだ。だから、今、ここで生命が尽きようとも少しの悔いもない。
 ただ、自分の不注意のために、ついにこの世の光を見ることなく儚くなってしまう腹の子には心から申し訳ないと思った。   
 明姫は既に焦点を結べなくなった瞳をうつろに彷徨わせ、細い手を差しのべた。ユンがすかさず、その手を握りしめる。
 その手に温かな滴が落ちた。ユンが泣いているのだと判った。
―私の魂はずっと、お側にいます。だから、泣かないで。
 そして、私は何度生まれ変わっても、この広い世の中から、あなたを探し出し、恋をするだろう。
 たった一人の愛しいあなたにめぐり逢う度に、私は何回でもあなたに恋するに違いない。
 明姫の囁きは確かにユンに伝わった。
 明姫の手から急速に力が失われていき、やがて、ポトリと落ちた。
「殿下、私はお先にウンの許に参ります。どうか民から讃えられる聖君におなり下さいますよう」
 それが明姫の最後の言葉となった。
「行くな、行くな―っ」
 ユンが声を限りに叫んだ。聞いている方が辛くなるような咆哮に、部屋の片隅に控えていた内侍府長の黄内官は痛ましげに眼を伏せ、泣いている王から顔を背けた。

 蘇明姫(ソミヨンヒ)、この時、二十一歳。傑出した聖君と国中の民より讃えられた直宗に愛された生涯は短くも幸せなものだったのかもしれない。
 明姫が血を吐いて倒れた直後、ヒャンダンはすぐに薬湯を運んできた若い女官を探したが、時既に遅く、あの女官はいずこへともなくかき消すようにゆく方をくらましていた。



 黎明の空が頭上一杯にひろがっている。紫紺の空に徐々に橙色の筋が混じってくる。刻一刻と変わりゆく空の色は、長い夜が明け朝が近いことを告げていた。
 直宗はゆっくりと空を仰ぐ。薄紫の美しい夜明け前の空は、彼がかつてある少女に贈ったノリゲを思い出させた。
 王は視線をうつろわせ、庭園に群れ咲く牡丹の花たちを見つめる。そう、あの日も―あの少女と出逢った日もここで牡丹が鮮やかに咲いていた。
 あの運命の出逢いから五十年を経たユンの脳裏に、今、明姫とめぐり逢った日の出来事がつい昨日のことのように鮮やかに甦る。
―済まぬ! 大丈夫か?
―はあ、私はたいしたことはありませんが、あなたの方こそ。
 宮廷の庭園を急いでいた二人は衝突し、派手に転んだ。物語のような美しくも劇的な出逢いではなく、いかにも二人らしい笑える出逢い方だったのだ。