何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】
「まあ、鯉の餌くらいにはなるかもしれぬな」
言うが早いか、明姫が差し出した小卓の掛け布をめくり、涼しげなガラスの器に盛られたそれをパッと勢いよく池に棄てた。
「―」
最早、明姫は何も言えなかった。
「身の程を知るが良かろう。そなたのような賤しい女、息子の嫁とも王族とも認めてはおらぬ」
大妃は言うだけ言い棄てると、振り向きもせずに命じた。
「疾く去れ、そして先刻も申したように、二度と私の前に現れるな」
早春の穏やかな陽射しがまだ固い桜の蕾に惜しみなく降り注いでいる。池の水面に光が乱反射して眩しく煌めいていた。
だが、大妃の最後のひと言を耳にした刹那、明姫の周囲から光り溢れる穏やかな世界は遠ざかっていった。
どこをどう歩いて殿舎まで戻ったのかは判らない。ヒャンダンが側についてくれて良かった。もし一人だったら、途中で力尽きて倒れてしまったかもしれない。
居室に入るなり、頽れるように座り込んだ明姫に、ヒャンダンが駆け寄った。
「大妃さまのおっしゃり様はあんまりです。何もあそこまで和嬪さまを追いつめなくても良いのに」
ヒャンダンは憤懣やる方ないといった顔でまくしたてた。
「やはり、このことは国王殿下に申し上げた方が良いのではありませんか?」
「駄目よ。こんな些細なことで、大妃さまと殿下の間に無用の波風を立ててはいけない」
あの二人は母子なのだ。それでなくとも、心が擦れ違ってばかりいる母と息子をこれ以上仲違いさせたくない。
自分が黙っていれば済むことなのだから。
「絶対に殿下にお話ししては駄目ですからね」
以前の食事に針が入っていた事件のときも、口止めしたのにヒャンダンからユンへとちゃんと伝わっていた。もちろん、ヒャンダンが明姫を案じてのことだとは判っているけれど、あのときのこともあるから、今回は厳重に釘を刺しておかなければならない。
「承知しました」
ヒャンダンは不服そうではあったが、不承不承頷いた。
そのときだった。腹部に鋭い痛みを憶え、明姫は小さく呻いた。
「和嬪さま?」
次の瞬間、明姫の小柄な身体はまるで雨に打たれた花が散るようにその場に倒れた。
「和嬪さま、和嬪さまっ!」
床に倒れ伏した明姫は消え消えにヒャンダンに訴えた。
腹部が尋常でなく痛い。まるで内側からひっかき回されるような激痛が断続的に襲い、その痛みは腰にまで及んでいた。
「ヒャンダン、痛い、痛いの。お腹が痛い」
ただ事ではないと判断したヒャンダンはすぐに宮廷医を若い女官に呼びに行かせた。むろん、王にも異変を知らせる遣いを出した。
―赤ちゃん、私の赤ちゃん。
すべてがウンのときとは違った。初めてのお産は緩やかな痛みから始まり、それがやがて本格的な陣痛へと変わった。痛みが始まってから半日ほどでウンは産声を上げたのだ。
もしかしたら、お腹の子は無事に産まれてはこないの?
言いしれぬ不安が明姫を怯えさせた。自分の生命なんて、どうでも良い。だから、天地神明(チヨンチシンミヨン)の神よ、どうかお腹の子だけは無事にこの世に生まれさせ給え。
子どもの誕生をずっと待ちわびていた愛する男性のためにも、私の生命と引きかえにしても良いから、子どもだけはお助け下さい。
明姫は天にいる神に、そして神の御許にいるはずのウンに祈り続ける。
明姫の意識はそこで真っ暗な闇にすっぽりと飲み込まれた。
明姫の腹痛は急激な陣痛の始まりであった。明姫の身柄はそのまま産室に移されたが、お産はなかなか進まなかった。
報告を受けた時、ユンは廷臣たちを集めて御前会議の真っ直中であったが、事が事だけに会議は中断され、彼は産殿に駆けつけた。
「これは一体、どういうことなのだ? 予定日はひと月先と聞いている。まだ産み月にも入っておらぬというに、何故、このようなことが起きた!」
国王に声も荒く詰問された典医は恐縮して平伏した。
「ご出産がかなり早まったものと拝察致します。ここまでお産が進んでは最早、止めるすべもなく、後はお子さまが自然にお生まれになるのを待つのみかと」
つまり施す手はないということだ。ユンは絶句し、その場に惚けたように立ち尽くした。
その間も産室からは明姫の悲鳴が洩れ聞こえてくる。
「和嬪さま、もう少し、もう少しだけ、頑張って下さい。力をお入れになって、息んで下さいませ」
付き添っている女たちが明姫を励ます声が明姫の悲鳴に混じっていた。
どうやら陣痛は次第に強いものになっていっているのに、肝心の赤児がまったく降りてこないらしい。一時はそれで赤児の無事が心配されたものの、胎児の無事はきちんと確認できており、赤児が弱っているのではないらしい。
しかし、時だけがいたずらに過ぎてゆけば、明姫の体力が保たないだろうとはユンにも予測はできた。
ただ烈しい痛みだけが明姫を苦しめ抜いている。ユンは産室には入れないが、外で明姫の悲鳴を聞いているだけで、居たたまれなかった。
「吾子よ。そなたは何故、母をこのように苦しめるのだ? 頼むから、早く生まれてきてくれ」
ユンは今も絶え間なく響いてくる明姫の苦しげな声を聞きながら、呟いた。
その後、彼は信じられない話を明姫付きの洪尚宮から聞いた。
急な陣痛が起こったのは、明姫が大妃と立ち話をして殿舎に戻った直後であったという。あろうことか、大妃は明姫が贈り物にと手作りの氷菓子を献上したのに、それを明姫本人の前で池に投げ捨てたのだ。
「このようなことを申し上げるのは畏れ多いことにございますが、これまで和嬪さまには早産になるような兆候は何一つありませんでした。あまりに大きな打撃をお受けになってお心にもお身体にもご負担がかかり、それが早すぎるご出産の引き金になったのではと」
ヒャンダンは泣きながら語った。
お産が長引きそうなので、一旦ユンは大殿に戻った。執務室に典医を呼び出しひそかに確認してみると、確かに明姫の妊娠経過には何一つ問題はなく、つい昨日の診察でも出産の兆候はまったく見られなかったとの応えが返ってきた。
典医が出ていった後、ユンは茫然と呟いた。
「母上が明姫を―」
その端正な面が一瞬、泣きそうに歪んだ。
明姫の陣痛はある程度まで強くなったところで弱くなり、止まった。依然として断続的に腹部や腰に鈍い痛みはあるものの、お産は完全に脚踏み状態になった。
産科医たちが集まって話し合った末、とにかく陣痛が緩やかなものにとどまっている間に明姫に十分な休養と滋養のつくものを取らせ、失った体力を取り戻させようということになった。
しかし、陣痛がまったく消えたわけではないのだから、このまま放置しておくのはまずい。胎児が衰弱してしまう恐れもある。何日か様子を見て陣痛が再び強くならなければ、明姫の体力の回復を待って、陣痛を強くする薬を処方するという方針がとられることになった。
突発的な陣痛が起こってから三日めの朝、明姫は産室で床の上に起き上がって朝食を取った。昨日までは横になったまま薄い粥をヒャンダンが食べさせてくれていたのだが、今朝になってやっと床の上に起きて一人で食べられるようになった。
作品名:何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】 作家名:東 めぐみ



