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何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】

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「たったそれだけ? それは何もかも手に入れた者のおごり高ぶった物言いではないか。奪われた者の口惜しさを考えてみるが良い。主上にこの上なく愛され、一時は世子の生母となったそなたに、空しく捨て置かれる賢嬪や温嬪の気持ちが判るというのか? そなたが後宮で時めいている陰で、あの二人は王の寵愛を失った惨めな妃として過ごしているのだぞ」
「私は―」
 自分が寵愛を受けるただ一人の側室だと奢る―そんなつもりはなかった。だが、大妃の指摘するように、自分一人がユンに愛される傍らで、愛されなかった女たちも確かに存在したのだ。
 言いかけた明姫に覆い被せるように大妃が言った。
「確かに、それは、そなたのせいではない。あの者たちに主上の気を惹くだけの魅力がないのも悪いのだからな。しかし、棄てられた者はそうは思わぬ。ただ自分から男の愛を理不尽に奪った女を憎み、許せないと思う。それが女心というものであり、世の常なのだ」
 明姫は何か言おうとして、言葉を飲み込んだ。
 大妃の心には今もなお、孔淑媛への根深い憎しみが巣くっている。それは先代の王が王妃である彼女ではなく、側室の孔淑媛を愛したからだ。また、たった一人の息子ユンも実の母よりも若く美しく優しい孔淑媛に懐いた。
 私の大切なものをすべて奪っていった憎らしい女。この世が続く限り、生かしてはおけぬ。
 大妃の呪いに満ち満ちた言葉が聞こえてきそうで、明姫は一瞬、胸の奥が冷たくなった。
 あまりに深く関わると、この人々の間に横たわる淵を覗き込むことになり、一緒に暗いところに引きずり込まれて帰ってこられなくなりそうだ。
 もしかしたら、自分はこの淵にうっかりと脚を踏み入れて、永遠に陽の当たる場所には戻ってこられないかもしれない。
 かつて伯母の崔尚宮が言っていた科白が今更ながらに思い出される。
―水上には美しき汚れのない蓮の花が群れ咲き、さながら、この世の楽園かとも思えるが、その実、水面下では互いに牽制し合い、隙あらば相手を陥れて脚を引っ張ろうと画策する醜い場所。
 女たちがただ一人の男の寵愛をめぐって競い合い、凌ぎを削る美しき花園。―それが後宮という場所なのだ。
 明姫は膝の前で組んだ指に意識を集中しようと努力した。ともすれば、得体の知れない怖ろしさに身体が震えそうになるのを堪える。
 彼女はあと一つ、この機会にどうしても言っておきたいことがあった。
「お許し頂けるなら、今一つだけ、大妃さまに聞いて頂きたい話がございます」
 思い切って言うと、大妃は愉しげに声を上げて笑った。まるで、たった今、明姫と自分はこの天が続く限り、けして相容れぬ仲だと宣言したことなど忘れ果てたかのように。
「つくづく恐れ知らずな女だな。まあ、良かろう。私はもう、そなたとは金輪際逢うつもりもない。そなたとこうして話をするのも最後になろうからの」
 あまりといえばあまりの科白に、流石の明姫も顔から血の気が引いた。少し離れた後方で見守っているヒャンダンが不安そうに立っている。
「どうした、今頃になって怖じ気づいたか」
 大妃は面白そうに言い、今日初めて明姫をまともに見つめた。
 ユンとよく似た整った面立ちは、まさに彼女の最愛の男とこの女が母子なのだという事実を示している。ただこの親子の纏う雰囲気は全然違っていた。穏やかな春の陽溜まりのようなユンと冬に吹き荒れる冷たい風のようなその母親と。
 できることなら、この女(ひと)と理解し合いたかった。
 明姫は改めて頭上の桜を見上げた。三月も下旬に入り、桜の枝にはあまたの蕾がついている。しかし、薄紅色の小さな蕾たちはまだ固く閉ざされていた。
 彼女は二年前、都に帰ってくる前にユンと訪れた仁誠王后陵での会話を思い出していた。
 あの時、ユンは語った。大好きな祖母と母がずっと相容れない間柄だったと。二人ともに大切な人たちなのにと話す横顔は見ている明姫の方まで切なくなるほど辛そうだった。
 祖母に作って貰った桜の花びらの首飾りを大妃に見せた幼いユンは、大妃に宝物のように思っていたその首飾りを棄てさせられた。
 幼かったユンは散り散りになった首飾りの花びらを桜の樹下に埋めたという。 
 恐らくはユンが幼き日、祖母と一緒に首飾りを作ったという場所はここではないのか。別に根拠があるわけでもないのに、明姫はふとそんな気がしてならなかった。
 ユンのためにも、大妃には義理の母として孝養を尽くしたい、受け容れて貰いたいと願っていたけれど、どうやら、その願いは叶いそうにないようである。
 せめて最後に、どうしても解り合えないというのなら、彼のためにこれだけは言っておきたい。
「殿下は大妃さまの愛情をずっと欲しがっておいででした」
 もっと直截にいえば、ユンは母を恋しがっていた。だからこそ、六年前、出逢ってまもない明姫に膝枕を要求したり、いまだに子が母に甘えるように膝枕を求めてきたりするのではないか。
 ユンのあの行動は、母の愛情を求めて止まない彼の心の裏返しであった。
「知ったような口をきくでない、そなたごときに何が判る」
 大妃がまたもあざ笑うように鼻を鳴らした。明姫はすかさず言った。
「判ります。私も母親ですから」
「確かにな」
 大妃がスと腕を伸ばしてきた。一瞬、頬を打たれるのかと思いきや、意外にも大妃は明姫の頬に軽く指先で触れた。
「主上が夢中になるのも判るような気はする。この国中を探しても、これほどの美貌はおるまい。美しい眼許は亡くなられた静献世子にうり二つだ」
 このときだけ、何故か大妃の鋭い眼許がほんの少しやわらいだように見えたのは、気のせいであったろうか。
 だが、そのかすかな表情の変化もほんのひと刹那にすぎなかった。
「しかし、和嬪よ、母親の子への愛情の示し方にも様々ある。私は私なりに息子を愛し、愛情深く育てたつもりだ。それをそなたごときにとやかく言われる憶えはない」
 大妃は明姫から手を放し、再び池の方に向いた。
 明姫はここでハッとした。まさかこんな展開になるとは思いもせず、今日は大妃に贈物を用意してきたのだ。後ろを振り返り、ヒャンダンに頷いて見せると、ヒャンダンが贈り物を両手で恭しく捧げ持って近づいてくる。
「こちらを」
 明姫はヒャンダンから小卓を受け取った。眼にも鮮やかな牡丹色の布が掛けられている。
「これは何だ」
 大妃が気のない様子で呟くのに、明姫は応えた。
「紅辣椒草苺冰(赤唐辛子入りのシャーベット)です。私が作りました。お口に合うかどうかは判りませんが、是非、召し上がって―」
 今朝早起きして、殿舎の厨房でヒャンダンとともに心をこめて作った氷菓子であった。まだユンにも作ったことがない。
 明姫の一生懸命な言葉はそこで途切れた。
 大妃が狂ったように笑い出したからだ。
「まったく愚かでおめでたいのか、それとも、単に主上のご寵愛を笠に着て恐れ知らずなのか」
 大妃の止むことのない笑声は明姫の心を凍らせ、春の空へと消えていった。
 ひとしきり笑った後、大妃の切れ長の眼許がよりいっそう鋭く細められ、柳眉の間の皺が深くなった。
「私が苺が嫌いだとそなたは知らなかったのか?」
 語気も鋭く言い放った後、彼女は呟いた。