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何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】

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 頬の腫れが彼と逢うまでに少しでも引いていれば良いが、幸か不幸か逢うのは皆が寝静まった夜更けなので、暗がりであれば黄内官に見咎められることはないだろう。
 ヒャンダンの心は娘らしく、既に数時間先の恋人との逢瀬に向かっていた。
 この時、ヒャンダンは最も大切なことを見逃していたのだ。ここのところ彼女の神経を尖らせていた一連の事件の犯人が賢嬪だと判明したことが果たして良かったのかどうか。
 賢嬪が犯人ならば、これ以上、悪戯がエスカレートすることはないと思い込んだことが、怜悧な彼女の判断を大きく狂わせることになったのだから。
 
 永遠に理解し得ぬ二人  

 すっかり大きくなったお腹を庇うように歩きながら、明姫は一旦立ち止まる。すぐ背後を守るように付いてくるヒャンダンが心配そうに訊ねてきた。
「和嬪さま、大丈夫ですか?」
 その不安の滲んだ声音に、明姫は振り返り微笑んだ。
「ええ、平気よ」
「もう産み月も間近です。あまりご無理はなさらないで下さいね?」
 まるで妹の出産に立ち会う姉のような口調だ。明姫はもう一度笑い、頷いた。
「もちろんよ。今度こそ、国王殿下に元気なお子を抱いて頂かなくては」
 臨月まであと十日足らず、予定日までひと月近くなっている。このところ、お腹の子はあまり動かなくなった。ウンを身籠もったときは、胎児に異変があったのかとしきりに不安がったものだが、二度めともなれば違う。
 医師の話によれば、産み月が近づいていよいよ赤児が大きく成長してくると、明姫の胎内が狭すぎて、これまでのように自在に動けなくなるのだという。そのため、赤児の胎動が自然と少なくなり、妊婦も腹の子の動きを感じなくなるのだと教えられた。
 少し離れた前方に桜の大樹が見える。その下に佇むほっそりとした女人の立ち姿を認め、明姫は小さく息を吸い込んだ。
 庭園の池は巨大で、到底外から水を引き込んで造りあげた人工のものとは思えない。その汀に大きな桜の樹が植わっており、今、一人の女性が緑陰に立ち、池に向かっていた。
 明姫は覚悟を決めたような表情でその女人に向かって真っすぐに歩いていく。
「大妃さま(テービマーマ)」
 明姫が呼びかけると、池に向かっていた女がゆっくりと振り向いた。しかし、またすぐに何も見なかったかのように視線は逸れてゆく。
 何のこれしき、この程度のことは端から予測していたではないか。明姫は己れを鼓舞しつつ、再度声をかけた。
「大妃さま」
「何事だ、騒がしい」
 何度目かの呼びかけで、大妃は漸く言葉を発した。その内容はともかく、大妃が口を開いたことで、明姫は大いに勇気づけられる。
「やっとお逢い下さり、嬉しうございます」
 何しろ毎日のように大妃殿には挨拶に伺っているのに、大妃が対面を許可したことは一度たりともない。だが、ずっと逢ってくれなかったことには触れず、明姫は明るい声音で言った。
「逢うも逢わぬも、今日はそなたが押しかけて参っただけだ」
 素っ気ない態度に心が早くも折れそうになるが、明姫は大妃の言葉が聞こえなかったかのように笑顔で続けた。
「これからもご挨拶にお伺いしてもよろしいでしょうか」
 短い沈黙が二人の間に漂った。側室とはいえ、大妃と明姫は姑と嫁の関係になる。再入宮してからこの二年というもの、明姫は自分なりに大妃に礼を尽くしたつもりであったけれど、大妃の頑なな態度がやらわぐことはついになかった。
 やがて、気づまりな沈黙は大妃によって、いともあっさりと打ち破られた。
「その必要はない、二度と私の前に顔を見せるな」
 ピシャリと言われた刹那、明姫はしなやかな鞭で頬を打たれたような心地がした。もしくは、それでなくとも張りつめたその場の空気がピシッと鋭い音を立てて、ひび割れたような。
 このときを逃せば、永遠に訊ねる機会はないかもしれない。明姫はありったけの勇気をかき集め、ひと息に言った。
「大妃さまはどうして、私ばかりを眼の仇になさるのですか?」
 次の瞬間、明姫は信じられないものを見た。大妃がフと笑った。それは間違いなく嘲笑であったが、明姫に向けられたものというよりは大妃が自分自身に向けたようにも思えた。
「そのようなことを訊ねて、どうする」
 しかし、大妃は明姫から応えを引きだそうとは考えていなかったらしい。ややあって、自嘲めいた薄笑いを浮かべたまま、手にしていた器から餌を取り、池に向かって播いた。
 忽ち無数の眼にも鮮やかな鯉たちが群れ集まって、我先にと餌に喰らいつく。
「私はそなたを見ていると、あの女を思い出すのだ」
 大妃は依然として明姫の方を見ようともしない。その話しぶりは極めて淡々としていたが、それだけに、かえって大妃の内にこめられた負の感情を余すところなく伝えてくる。
 負の感情―、この場合は憎悪だけでなく、やるせなさや怨念、妬み、ありとあらゆる恨み辛みが凝り固まっているのかもしれない。
 ?あの女?というのがそも誰を指すのかは明姫にも薄々察しはついた。
「孔淑媛さまにございますか?」
「そなたは孔淑媛を知っておるのか」
 初めて明姫に向けて発せられた会話らしい会話だ。明姫は折角の話の緒(いとぐち)を逃すまいと、勢い込んで応えた。
「少しは存じております」
 大妃が小さく肩を竦める。
「まあ、そなたも後宮には長くおるそうゆえ、彼の者の話を知っていたとて何の不思議もなかろう。問題は噂が真実かどうかということではない。あの女が私にとっては、この世ではけして相容れぬ者であった―、ただそれだけのことよ」
 つまりは、明姫も同様にこの世に生きている限りは相容れぬ間柄だと言いたいのだろう。噂というのは、大妃が孔淑媛を意図的に流産させたというものに違いなかった。
「そなたも不倶戴天の敵という言葉は存じておろう」
 大妃は歌うように言い、また池に向かって鯉の餌をばらまいた。
「この世が続く限り、未来永劫、けしてその者が存在することを許せない。そんな相手のことを言うのだ。少なくとも、私にはそう呼べる相手が三人はいる。もっとも、その中の二人ははるか昔に亡くなっているが」
 明姫の咽がヒュッと鳴り、空気を打つ鋭い音が静寂に響いた。
「我が息子を見事に籠絡したそなたであれば、その亡くなりし二人というのが誰かも容易に察しがつくであろう?」
 そして、最後にまだ生き長らえているのは誰かも。
 大妃の口には出さなかった次の科白が明姫にはその時、確かに聞こえた。
「孔淑媛は我にとって、まさに不倶戴天の敵であった。あの者と同じ空の下で同じ空気を吸っていると考えただけで、虫酸が走ったものよの」
「何故、そこまで孔淑媛さまを?」
 そして、私をお厭いになるのですか?
 今度は明姫が続く科白を飲み込む番だった。
 大妃の返事はすぐに返ってきた。
「知れたことよ。あの女は私からすべてのものを奪った。良人の愛、そして息子の愛。私がけして手に入れられなかったものをあのおなごはいとも簡単に手に入れた。私はそれが許せなかったのだ」
「たったそれだけのことで、共に天を頂くのが許せないほど憎んだのですか?」