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何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】

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 賢嬪は憎々しげに言い放つと、チマの裾を翻し女官一同を率いて悠々と去っていった。去り際、最後列にいた女官の一人が振り返り、クスリと勝ち誇った笑みを浮かべているのも、もう気にはならなかった。
「和嬪さま」
 茫然と立ち尽くしていると、ヒャンダンが気遣わしげに近寄ってきた。
 明姫は弱々しい微笑を浮かべた。
「ごめんなさいね。危急のときとはいえ、あなたを叩くなんて」
 ヒャンダンは涙を浮かべて首を振った。
「いいえ、私のことなど、どうでも良いのです。それに、和嬪さまが私を連れていかせまいと賢嬪さまの前でわざと叩いたのは判っています」
「そんな言い訳は通用しないわ。あなたは私のたった一人の親友なのに」
 明姫はそっと手を伸ばし、ヒャンダンの頬に触れた。
「痛むでしょう」
 ヒャンダンの頬にはまだ、うっすらて手形が残っている。明姫は軽く手を当てただけだが、賢嬪は力一杯張ったに違いない。
「可哀想に。小花もヒャンダンも、私の側にいるせいで辛い目に遭わせてしまうことになるのね」
 明姫がヒャンダンの頬を撫でながら呟いた。
「和嬪さま、賢嬪さまが言った言葉なぞお気になさる必要はありません。あの方はご自分が国王殿下のご寵愛を頂けないことを逆恨みして和嬪さまにあのような酷いことを言ったのですから」
 明姫はそれには応えず、曖昧な微笑みを返しただけだった。
「少し腫れるかもしれないわね。とにかく一刻も早く殿舎に戻って、冷やしましょう。ヒャンダンの綺麗な顔が腫れてしまったら、黄内官に私が合わせる顔がないじゃない」
 と、最後は冗談めいて言うと、ヒャンダンの顔が忽ち紅くなった。
「和嬪さまっ、このようなときにご冗談は」
 観玉寺から戻ってきて以来、内侍府長黄孫維の養子であり大殿内官の黄維俊とヒャンダンが時折、逢い引きしているのは周知の事実である。
 もちろん、表向き女官と内官の恋愛は法度とされているけれど、二人の場合は国王公認なのだから、提調尚宮(チェジヨサングン)(後宮女官長)も容認しないわけにはいかなかった。
 殿舎に戻ってから、明姫は盥に汲んだ水に手ぬぐいを浸し、ヒャンダンのまだ赤みの残る頬を冷やしてやった。
「これで少しは楽になると良いけどね」
 うっすらと涙ぐんで不安げに言う明姫に、ヒャンダンは泣き笑いの表情で言った。 
「身分の高い方は大抵、お付きの尚宮など主人の代わりに殴られて当たり前だと思っていらっしゃいます。でも、和嬪さまは違う。今もこうやっておん自ら私の傷を癒そうとし、私のために泣いて下さいます。私はその和嬪さまの涙をこの上なく尊いものだと思います。だからこそ、この殿舎で和嬪さまにお仕えする私たちはそのような尊い心をお持ちになったあなたさまを心よりお慕いするのです」
 ですから、どうか賢嬪さまの馬鹿げた言葉を信じたりはなさらないで下さい。
 ヒャンダンは明姫を見つめて言った。
「確かにこの後宮には和嬪さまを理由なく妬む者もいるでしょうが、私どものように心からお慕いする者も大勢おりますから」
 ヒャンダンのその言葉は、明姫の心深くに届いた。
 正直、賢嬪に突きつけられたあの科白
―たとえ、あなたが何をしたわけでなくとも、あなたの存在そのものが皆の憎しみを呼ぶのですよ。
 は堪(こた)えていたのだ。
 自分に自覚があるのならともかく、いわれのないことで一方的に憎まれるのは耐えられない。しかも、殺したいほど憎まれるだなんて、あんまりだ。
 だが、時ここに至り、誰が小花に毒を食ませて殺したのかは判った。もちろん確たる証拠があるわけではないから迂闊なことは言えない。が、先刻、明姫が小花の死を持ち出したときの賢嬪の狼狽え様から、彼女が犯人である可能性は高いと見た。
 互いに口には出さずとも、想いは同じだと明姫はヒャンダンと視線を合わせて確認した。
 明姫の御前を下がったヒャンダンは廊下に出てから、まだ痛む頬を手のひらで押さえた。
 まったく、あの高慢ちきなのっぽ女ときたら、思いきり、しかも両頬をひっぱたくんだから。痛いったら、ありしゃない。
 力の限り打たれた頬はまだひりひりと痛みが走るけれど、あんなに申し訳なさそうに涙ぐんでいる和嬪さまの前で痛そうな顔なんて到底できはしない。
 あのお優しいお方をこれ以上心配させたくないから、ヒャンダンは痛みなんて、もうこれっぽっちも感じないというような平気な顔をしていたのだ。
 それにしてもと、ヒャンダンは考えた。あの賢嬪が小花を毒殺したというのなら、これから先、明姫の身にまで危険が及ぶことはないのではないかと思う。
 賢嬪は気位だけは山のように高いが、あまり利口だとは言い難いし、見かけによらず意外と小心だ。間違っても国王の寵愛厚い明姫に毒を盛って殺すという空恐ろしい謀を画策するような器ではない。
 小花は哀れだったが、これでひと安心とも思えた。考えてみれば、鼠の死骸を褥に潜ませていたのも、針を明姫の御膳に隠していたのも極めて稚拙な悪戯といえた。
 流石に針が食事に混入していたときはヒャンダンも慌てたが、入っていたのは刺繍用の比較的大きな針であった。あの大きさならば目立つし、犯人には最初から明姫を殺害する意図はなかったはずだ。
 ただ、明姫を怯えさせ動転させるのが目的だったのだろう。これらの一連の事件がすべて賢嬪の仕業だと断定はできないが、その可能性は極めて高いといえた。
 ヒャンダンは足取りも軽く廊下を歩いた。事件の全容が明らかになれば、不安もかなり軽減された。実はヒャンダンはまったく別の可能性を考えていたのである。
 というのも、ここのところ、ずっと鳴りを潜めている大妃の仕業ではないかと疑っていた。相手が王の母だけに、明姫にさえもこの考えは打ち明けられるものではなかった。
 二年前、観玉寺から宮殿に戻ってきた当初、ヒャンダンは当然ながら大妃が次なる罠を仕掛けてくると身構えていた。しかし、結果として、この二年間というもの、大妃に目立った動きはなかった。
 かつては明姫を王妃毒殺未遂の容疑者に仕立て上げてまで宮殿を追放しようとしたのに、ずっと黙しているのがかえって不気味に感じられたのだ。
 だが、この二年間で明姫は側室としては最高の位階を賜り、世子の生母となった。最早、大妃といえども容易く手を出せる相手ではなくなったともいえるし、また大妃にとっては初めての孫になる世子を産んだことで、いささかなりとも大妃の明姫への憎しみが薄れたのではと期待していた。
 もしかしたら、自分の希望的観測は真実なのかもしれない。大妃が長年の明姫へのわだかまりを解いたのではと考えると、ヒャンダンは嬉しくなった。
 もっとも、老獪な大妃が仕組んだにしては、かなりお粗末な嫌がらせだとは訝しく思っていたのは事実である。
 とにかく、これでひと安心というものだ。ヒャンダンは足取りも軽く廊下を歩いた。現金なもので、安心したら鼻歌まで口をついて出てくる。
 今夜は久しぶりに黄内官と逢う約束をしている。昼間は人眼もあるし、互いに重責ある立場を任されて忙しい。到底、恋を語らうゆとりなどあるはずもない。