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何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】

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 賢嬪の一行に比べて、明姫はヒャンダンを初め数人の女官を連れているだけである。本来であれば、このようなときは格下の賢嬪が脇により先に明姫を通すべきである。しかし、明姫は身分に拘るような質ではない。
 ゆえに、このときも大所帯の賢嬪一行を先に行かせてやろうと考え、ヒャンダンに目配せして自分たちが止まり脇によけた。
 賢嬪はそれに対して礼を言うでもなく、傲然と顎を上げ、さも当然だとでも言いたげに明姫たちの前を素通りしていく。
 傍らのヒャンダンが顔色を変えるのに、明姫は小声で囁いた。
「良いのよ。これで波風が立たないのなら、その方が良いわ」
 ところが、である。賢嬪の一行の最後尾が明姫たちの前を通過するまさにその時、はっきりと聞こえてきた。
「罪人が近くにいるなど、怖くて堪りませんこと」
「!」
 明姫が止める間もなかった。ヒャンダンが一歩踏み出し、行き過ぎようとしている集団に声をかけた。
「失礼ですが、今、何とおっしゃいましたか?」
 その声につられるように、先頭の背の高い女が振り向いた。こういう女を美人と呼ぶ人もいるのかもしれないが、お面を被ったように無表情のその美しい面にはおよそ人間らしさはなく、ただ人を見下したような冷笑が浮かんでいるだけだ。
「あの者は何と申しているのだ?」
 ヒャンダンの言葉は賢嬪まで届かなかったようで、お付きの尚宮に訊ねている。尚宮が賢嬪に耳打ちすると、その整った顔に浮かんだ笑みが更に冷ややかさを増した。
「そなた、この私に直に物を言うとは、たいした度胸だな」
 実際にはヒャンダンは賢嬪その人に話しかけたわけではなく、通りすがりに明姫を侮辱した女官に対して叫んだのだが。
 ヒャンダンの行為は、それでなくとも明姫に憎悪を抱く賢嬪に明姫を糾弾する格好の機会を与えてしまった。
「ご無礼を承知で申し上げます。今、賢嬪さまご一行の中に、確かに我が主人和嬪さまを愚弄する言葉を吐いた者がおります。その者をどうかこちらにお引き渡し下さい」
 ヒャンダンも引こうに引かれず、賢嬪に対して言葉遣いは丁寧ながら、はっきりと物を言った。
「そなたは何様のつもりだ?」
 賢嬪がゆっくりと歩いてきた。かと思うと、いきなりヒャンダンの頬を打った。
 ヒャンダンは惚(ほう)けたように賢嬪を見つめている。だが、我に返ると、ムキになったように言い募った。
「引き渡すのが無理というのなら、せめてきちんと謝罪を―」
 再びヒャンダンの頬が鳴った。またしても賢嬪が叩いたのだ。
「何と無礼な。主が主なら、仕える者も知れている。この不心得者を連れ帰り、この曲がった性根をたたき直してやろう。二度とこの私にこのような礼儀をわきまえぬ物言いをせぬように鞭打ってやる」
 賢嬪が顎をしゃくると、お付きの尚宮と女官が数人がかりでヒャンダンを取り押さえようとした。
「お待ち下さい」
 もう見ていられなかった。明姫はヒャンダンの前に進み出ると、彼女を背後に庇うように立った。
「洪尚宮の失礼はこの私が本人になりかわり、お詫び申し上げます。今後はこのようなことがないようによくよく申し聞かせますゆえ、今日のところはどうかご容赦を」
「和嬪さまがお謝りになることはございません。たとえ賢嬪さまとはいえ、和嬪さまは世子さまのご生母におわします。本来であれば、賢嬪さまが和嬪さまに道をお譲りになるべきなのに、ご自分が我が者顔でお通りになるばかりか、お付き女官が和嬪さまを侮辱しても謝罪の一つもなさらぬとは」
 ヒャンダンが悔し涙を滲ませて訴える。
「そなた、この期に及んで、まだ言いやるか!」
 賢嬪の花のかんばせが夜叉のように歪んだ。
「洪尚宮、お黙りなさい」
 明姫が後ろは振り向かず、きつい口調でたしなめた。
「和嬪さまはお付きの尚宮に一体、どのような躾けをなさっているのやら」
 賢嬪は嘲笑めいた笑いを刻んだまま、明姫を真正面から見据えた。
「確かにその者の申すように昔は世子さまの母君であったのやもしれませんが、その世子さまも今はお亡くなりになったのではありませんか。世子さまは既におられないというのに、なお世子さまの母君と名乗るのはいささかおこがましいのでは?」
 すぐ後ろでヒャンダンが息を呑む音が聞こえた。
「今は和嬪さまも私もただの一介の側室同士、違いますか?」
 畳みかけるように言う賢嬪の顔には勝ち誇った笑みが浮かんでいる。
「和嬪さまはまもなく、二人目の御子さまのお母君となられるお方ですよ? そのような物言いをなさってよろしいのですか、賢嬪さま」
 よほど悔しいのだろう、ヒャンダンは叫んだ。
「止めろと言ったら、止めるのだ」
 明姫は心を鬼にしてヒャンダンの頬を軽く叩いた。案の定、賢嬪は今にも射殺しそうなまなざしでヒャンダンをにらみ付けている。このままでは、冗談でなくヒャンダンをひきずって帰り、息絶えるまで鞭打つかもしれない。
 ヒャンダンの身が危ういことを察知し、明姫は機先を制して自らがヒャンダンを罰するという行動に出たのだった。
 ヒャンダンは明姫がそのまま引き下がるのかと思っていたのだが、明姫は何を思ったか、一歩進み出た。小柄ながら、その存在感は周囲を圧倒するほどのものがあった。その勢いに気圧されたかのように、賢嬪が一歩下がる。
「賢嬪さま、先日、私の飼い犬が亡くなりました。亡くなる前日まで嘘のように元気であったのが、急に具合が悪くなり死んだのです。賢嬪さまの御許では犬や猫は飼っておられませんか? もし飼っておいでなら、十分用心なされませ」
 その瞬間、賢嬪の白皙がさっと蒼褪めたのを明姫もヒャンダンも見逃さなかった。
「そ、それはお気の毒なことでしたね。ご親切にどうも。折角ご心配頂きましたが、私のところでは特に犬猫の類は飼っておりませんゆえ」
「そうでしたか。それはよろしうございました。それでは、私はこれにて失礼致します」
 明姫が踵を返そうとした時、賢嬪の悔し紛れの声が追いかけてきた。
「その飼い犬は恐らく、和嬪さまになり代わり、恨みを受けて死んだのでしょう」
 その声に、明姫がくるりと振り向いた。
「それは、どういう意味ですか?」
 賢嬪がつんと顎を反らした。
「言葉どおりですわ。あなたさまの代わりに、可愛がっておられた犬が皆の憎しみを引き受けて、そのせいで亡くなったと申し上げたのです」
「私が何故、皆の憎しみを受けねばなりませんか?」
「そのようなこともお判りないのですか!」
 賢嬪は呆れたように鼻を鳴らした。名家の息女が聞いて呆れる下品なふるまいに、明姫付きの女官たちは一様に顔を見合わせている。
「私にはまったく身に憶えのないことです」
 明姫は表情をいささかも変えることなく言った。
「そう思っているのは恐らく、和嬪さまだけでしょう。あなたを憎んでいる者など、この後宮にはごまんとおります」
「何をもって、賢嬪さまはそのようなことを仰せなのですか? 私がそれほどまでに憎しみを買うような何をしたと」
 賢嬪はフとあざとい笑いを洩らした。
「ここまで私が教えて差し上げなければ判らないとは、どこまでも鈍くていらっしゃる。たとえ、あなたが何をしたわけでなくとも、あなたの存在そのものが皆の憎しみを呼ぶのですよ」