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何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】

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 これから生まれ出ようとする新しい生命は彼女にとって孫だった。しかし、大義名分のためには、情を殺さねばならぬときもある。ペク氏の天下を築くため、家門興隆のため、引いてはあの忌まわしい事件を知る者は根絶やしにして、後々の禍根を断つことが肝要なのだ。
 大妃は白い手から溢れでる鮮血をまるで美味な果汁を吸うようにペロリと舐めた。
 この血の色を忘れまい。息子の心を奪ったあの憎らしい女がいなくなろうが、自分にはいささかの罪悪感もないが、流石に腹の子ごと女を葬り去るとなると心は痛む。
 だが、これは闘いだ。どちらが生き残るかどうかを賭けての。闘いに情けは無用。もし我が身が負ければ、こうして紅い血を流すことになるだろう。
 ゆえに、負けられない。是が非でも、あの女を今度こそ亡き者にしてやるのだ。
 大妃の瞳には決断した者だけが見せる冷酷な色が浮かんでいる。最早、そこに躊躇いの色は微塵もなかった。
 その瞬間、彼女の瞼から愛してやまなった可愛い孫の顔は消え去った。

 自分の身にまだ何が起こっているか、明姫はまだ少しも自覚はしていなかった。否、大体、他人を疑うことなどできはしない性分なのだ。ましてや、自分の身許が大妃側に洩れているとは想像だにしていなかった。
 ヒャンダンは常に神経を研ぎ澄ませて明姫の周辺に気を配っていた。明姫の居室の前には常に信頼できる女官だけを配し、自分もまた側から離れない。
 また運ばれてくる食事にも細心の注意を傾け、必ず自らが毒味をした上で明姫の前に出した。そこまで徹底しているからか、特に何事も起こらず、日は流れ、明姫は無事に妊娠九ヶ月に入った。予定日まであと残すところふた月だけだ。
 そんなある日、早咲きの桜が宮殿の庭園で最初に花開いた朝のことだった。
 その日は朝からからりと晴れ、涯(はて)のない蒼穹が都漢陽(ハニャン)の上にひろがった。早い春の到来を予感させる陽気に、明姫はヒャンダンの勧めもあり、庭園を散策することになった。
「綺麗ね」
 明姫はまだ漸く一分咲きといった桜を見上げ、感に堪えたように呟いた。
「不思議だわ。ウンを失った直後は私の回りの世界もすべて灰色に塗り込められて、私は色のない世界に生きているようだった。でも、今は違うのよ。幾ら人間が嘆き哀しもうと、こうやって季節はめぐり、また花咲く春がやってくる。今はこの咲いたばかりの花の中に、蒼い空の向こうに、ウンの笑顔が見えるような気がするの」
―母上、私はいつでも、こうやって母上の側にいます。
 幼いあの子がそう囁きかけてくれているようで、私はいつもあの子と一緒にいられるような気がする。
「それもすべては、この子のお陰ね。この子が春を―新しい希望と生きる勇気を私に運んできてくれるんだわ」
 明姫はしみじみと言い、愛おしげに膨らんだ腹を撫でた。それに応えるかのように、赤児がポンポンと腹を蹴る。
「それはよろしうございました。始終、お部屋に閉じこもってばかりでは、お身体にもよくありません。思い切って外に出ることをお勧めした甲斐があったというものですわ」
 ヒャンダンも嬉しげである。
 そのときであった。向こうから賑やかな話し声が聞こえてきた。集団はゆっくりとこちらに近づいてくる。
「賢嬪さまご一行のようです」
 ヒャンダンが明姫に耳打ちする。明姫は頷き、小声で応えた。
「何食わぬ顔でやり過ごせば良いわ。こちらが大人しくしていれば、向こうも突っかかってくることもないでしょう」
「承知致しました」
 ヒャンダンも頷き、数人の女官を従えた明姫たちも平然と歩く。その中、いよいよ賢嬪の一行が近づいてくる。
 同じ嬪の位を持つ妃とはいえ、今の明姫は亡き静献(諡号)世子の生母であり、国王の第二子を懐妊中の身である。明らかに明姫の方が格上であった。
 だが、賢嬪は領議政の養女として鳴り物入りで入内したという経緯がある。その上、一度閨に召されたきりで、後はうち捨てられた状態が続いていた。同時に入内した今一人の温嬪はたった一度のお召しで見事に懐妊し、殊勲の初めての御子の生母となる栄誉を得たものの、難産の末に産み落とした王女は死産、悲嘆のあまり、狂人となり果てた。
 男の愛を失った女の末路ほど、哀れなものはない。温嬪も賢嬪もあたら女の盛りを無為に後宮で過ごし、孤独な日々を数えている。もし彼女たちが国王ではなく、普通の男に嫁いでいたならば、こんな女の悲哀は味わうことはなく済んだかもしれない。人生とはかくも無残なものである。
 賢嬪の一行は総勢十数人を数える大集団であった。付き従う女官たちはいずれも年若く美しい者たちばかりだ。
 国王の寵をどうしても得られないと悟った後、賢嬪は若く見目麗しい女官たちを集め始めた。自分が王の関心を引けないのなら、せめて側に王の食指が動きそうな娘を置いて、王の脚を自分の殿舎に向けさせようという作戦である。賢嬪の意図はあまりにもあからさますぎて、後宮中の女たちの失笑を買うことになった。
 しかし、側室でも正室でも、良人の愛をつなぎ止めておくことができなければ、自分に仕える女官や侍女を良人に勧めて、せめて自分の立場を守るのは常套手段ではある。その方が他の競争相手である側室が寵愛されるよりはよほど分が良いからだ。
 これも後宮においての勢力を保つための保身の策といえようか。
 今や後宮には中殿は別格として三人の側室が侍っている。しかし、王の寵幸を受けるのは和嬪だけで、自分や温嬪は既に完全に忘れ去られた存在であった。
 気違いになった温嬪など、この際どうでも良いが、自分は温嬪とは違う。しかも、入宮時、賢嬪は時の権力者領議政ペク・ヨンスの養女として側室となったのだ。つまり、正室の中殿とは義理とはいえ姉妹の間柄になる。
 その自分がこんな扱いを受けて良いはずがない。その想いは常に賢嬪の心の奥底にわだかまり、悶々とした日々に彼女を追いやっていた。
 あたかも後宮中の女たちが自分を蔑み嘲笑しているかのような屈辱を感じて生きている。いや、実際、それはあながち自分の被害妄想的な思い込みばかりではないだろう。
―見てごらん、あの高慢な女は殿下の寵を失い、今や見向きもされない。
 女たちの悪意に満ちた囁きが聞こえてくるようで、賢嬪は夜も眠れない日々が続いていた。
 それもこれも、すべては、あの女のせいだ。和嬪などとたいそうな職名を賜っているが、何のことはない女官上がりの小娘ではないか。賢嬪はいつも腹立たしい気持ちでいた。和嬪はどうやら両班の出ではあるらしいけれど、所詮は力のない下級両班の娘に違いない。
 さもなければ、女官になどならないはずだ。家計が苦しいため、口減らしを兼ねて親に半ば売り飛ばされた形で女官として宮廷入りしたのだろう。
 それに引きかえ、我が身は名門ペク氏の一族の遠縁に当たり、実家の父も議政府において右賛成(ウチヤンソン)の要職に就いている。そんな自分があんな賤しい身分の小娘に劣るなんて思いたくもない。
 実は賢嬪のその考え方が王を彼女から遠ざけている最大の原因なのだが―、彼女自身はまったく理解していない。ただ我が身の不幸を嘆き、自分をこんな惨めな境遇に追いやった和嬪を恨んでいた。