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何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】

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 きりきりと血が滲むまで唇を噛みしめる。飼い犬に手を噛まれたとは、まさにこんな気持ちを指すのだろうと他人事のように、半ばぼんやりとした意識で考えた。
 崔尚宮は長年、大妃付きの尚宮として、朴尚宮の下でよく働いてくれた。大妃は気性は烈しいが、けして愚かなだけの女性ではない。崔尚宮の能力も買ってはいたのだ。
 二年前、和嬪が復位して後宮に舞い戻ってくるとほぼあい前後して、崔尚宮は一足飛びに昇進し、監察尚宮になった。中殿の強い推薦もあったし、大妃自身も崔尚宮が逸材であるとは知っていたから、快く昇進に同意したのだ。昇格するに伴い、崔尚宮は以前暮らしていたよりも、ひと回り規模の大きな殿舎に移った。
 まさに、恩を仇で返されたとはこのことに相違ない。崔尚宮を信用していただけに、大妃の怒りは凄まじかった。
「今になって何故、和嬪が素性を偽っていると判ったのです?」
 領議政はニヤリと笑った。外見の剽軽そうな雰囲気はガラリと変わり、打って変わって冷徹な独裁者の素顔が覗いている。己れの野望を遂げるためには、たとえ何ものであろうが犠牲にすることも厭わないという―。
 何故かその時、我が兄ながら、大妃はゾワリと背筋が粟立った。崔尚宮に対して感じていた先刻までの口惜しさも途端に萎えた。
「このまま和嬪に御子を生ませるわけにはゆかない。それは大妃さまもよくよくご存じのはずです。それゆえ、私も漸く和嬪追い落としに本気でかからねばならぬと思い立ち、手始めにまず和嬪の身許を調べたのです。そうしたら、どんぴしゃりで怪しい点が見つかりましてね。そこから、女狐の素性が露見したというわけですよ」
「しかし、兄上、二年前の恭誠君のときは和嬪の出産を手をこまねいて見ていたではありませんか」
「あのときとは状況が違います。よろしいですか、大妃さま。私があの時、このまま様子を見ると申し上げたのは、まずは王室にとって御子の誕生が最優先されるべきことだと判断したからです。ですが、静献世子の誕生によって、状況はどうなりましたか? 和嬪の立場はより揺るぎないものとなり、殿下の和嬪へのご寵愛はますます厚くなった。最早、考えている猶予はありません。次に和嬪が王子を生めば、殿下はまた、その王子を世子にお立てになるは必定。さすれば、もう取り返しはつかないのですよ。我々はますます追いつめられ、我らペク氏の家門は勢いを失うでしょう」
「―」
 大妃は黙り込み、色鮮やかに染まった爪を食い入るように眺めた。いや、視線は爪に向けられていたが、実際は何も見てはおらず、ひたすら考え事に集中していた。
 そんな大妃の耳に領議政の冷酷な声が入ってくる。
「前回は幼い世子が運良く死んでくれたから良かったようなものの、今度もまた同じように上手くいくとき限らないですからな」
 大妃の瞼に幼い孫のあどけない笑顔がありありと浮かんだ。幾度もこの腕に抱いた、あの小さな身体の温もりや赤児特有のふんわりとした匂いが今も鮮やかに思い出される。
 亡くなる十日ほど前にも、中宮殿を訪れ、元気な世子を抱っこしたばかりであった。あのときは健やかそのものであった孫はもう、いない。いなくなってしまった。
 待ち望んだ初孫だったのに。将来は息子のユンの跡を継いで、この子がこの国の王となるのだと一時は愉しみにしたのに。
「兄上は世子の死をお望みであったのですか? 女狐の生んだ子でも、私にとっては血の繋がった孫ですよ」
 妹の冷えた声音に、領議政の声に狼狽が混じった。
「いや、別にそういうわけでは。断じて、それはありません。ですが、結果として世子はお亡くなりになった。であれば、その現実を利用しない手はないでしょう」
「それで、兄上はどうなさるおつもりで?」
「和嬪には子は産ませません」
 大妃はちらりと兄を見た。
「子が流れるように細工をするのですか?」
 領議政は思案顔で腕を組んだ。
「今になっては時は遅すぎるでしょうな。和嬪の腹の子は既に八ヶ月、直に九ヶ月というではありませんか。妊娠初期ならまだしも、今の時期ならば堕胎薬を飲ませたとしても、出産が早まるだけだ。九ヶ月に達していれば、生まれても赤児が育つ可能性は十分ありますよ」
 生まれてすぐに殺すのなら別としてもね。
 領議政はまるで捨てられた子猫を間引くような口調で簡単に口にする。
 大妃は毒々しいほどに紅く染め上がった爪先をきりきりと自分の手の甲に突き立てた。
「兄上は既に王子と決めてかかっておいでですが、何も今度もまた男子とは限らないでしょう。温嬪の産んだ最初の御子は王女でした。和嬪の産む子もまた王女であれば、後々の禍根にはなりません」
 領議政は抑揚のない声で断じた。
「気弱になっておられますな、大妃さま。もちろん、大妃さまのお心は私も判ります。私にも息子たちがおりますゆえ、孫に対する想いはまた子への情とは異なり、格別のものであるとも。しかし、ここは冷静になって、お考え下さるようにお願い申し上げます。よろしいですか、和嬪はあの蘇承基の娘なのですぞ? 私が和嬪に御子を産ませたくないと思うのは何もペク氏の興隆のためだけではない。万が一、あの娘が我々のことを知り―、いや、既にもう知っているのかもしれませんが、いずれにせよ、あの娘が父の無念を晴らそうという気になったときのことも考えているのです」
 領議政は鹿爪らしい顔で続けた。
「今の和嬪の立場をもってすれば、我々を断罪することは可能どころか、容易いでしょう。何せ、国王殿下はあの女に夢中になっておられる。それどころか、あの女は殿下との間に二人もの御子をなしているのです。単に惚れているという以上に深い情があるのは当然ではありませんか。その女が泣いて縋れば、殿下が実の伯父と母である我らに刃を向けないと誰が断言できましょうや」
 大妃が口をつぐんだので、領議政はここぞとばかりにまくしたてる。
「百歩譲って、今は和嬪が大人しくしているとしても、この先、どう出てくるかは判らない。最も怖ろしいのは、仮に和嬪がまたしても王子を生み奉り、その御子が将来、王位を継いだときのことです。むろん、そのときの大妃は中殿さまがいらっしゃいますが、事実上の実力者は中殿さまではなく、王の母たる和嬪になるでしょう。それは間違いない。その時、和嬪が我が子である王を動かせば、我々はひとたまりもないのです」
 大妃が依然として無言のままなのを見て、領議政はこれ見よがしの溜息をついた。
「どうか現状をよくよくご覧になり、懸命なご判断を下されますことをお願い致します」
 そう言い置いて、兄は早々に座布団を蹴立てるように立っていった。
 それからしばらくの間、大妃は誰をも近づけず、一人物想いに耽った。
 ずっと虚空を睨み据えていた大妃が眼を瞑った。そのままで黙考していた時間はわずかなものだった。やがて、大妃の眼がカッと見開かれた。
 やむをえない。大妃は無意識の中に爪を手の甲に立てる。あまりに力を加えたため、白い苦労知らずの手には細く傷跡が走り、薄く血が滲んだ。
 子はまたできる。王はまだ二十七歳と若いのだ。これから新しい側室を迎えれば、王子も王女も山ほども生まれるだろう。