何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】
ヒャンダンが痛ましげに明姫を見ている。その時、ヒャンダンは大切な女主人の瞳に哀しい諦めと覚悟の色を確かに見たのだった。
ヒャンダンが下がった後、明姫は完成したばかりの小さな足袋を手のひらに載せ、見入った。生まれてくる子の幸せを祈りながら、ひと針ひと針心をこめて刺した撫子の花を愛おしげにそっと撫でる。
自分の居場所も死に場所もここ(宮殿)、大好きな彼の側にしかない。
観玉寺を去る時、心に誓ったのだ。負けないと、もう自分の心の弱さに負けて、愛する男の傍から離れたりしないと決めた。
そう、これで良い。私は母親なのだ。愛する男と我が子を守るためには、けして不当な力に屈したりはしない。
私はどこまでも闘う。明姫は小さな足袋をまるでそれが我が子であるかのように胸にしっかりとかき抱いた。
すべてを諦めることは、また、すべてを手に入れることでもある。ひとたび強い覚悟を示した者には、最早失うものはないし、怖いものもない。
明姫の表情はかつてなく晴れやかですらあった。
嫉妬
明姫が哀しくも壮絶な覚悟を定めた頃、大妃殿ではある怖ろしい事実が白日の下に晒されようとしていた。
その日の昼下がり、領議政ペク・ヨンスが大妃殿を訪れた。信頼する兄の来訪を告げ、腹心の朴尚宮が下がっていった後は兄妹だけの空間となる。
それでも、はばかるところがあるのか、今日の兄はいつになく落ち着かない様子だ。
大妃はよく手入れされた爪を満足げに眺めながら、兄の方は見もせずに問う。
「いかがなさいましたか? 何かお心ここにあらずといった体にお見受けしますけれど」
彼女は両方の手をひろげ、兄に指し示して見せた。
「これは大妃殿の庭園に植えた紅花で作った爪紅なのですよ。爪紅を作るのに長けた女官がおりまして、その者に任せたのです。色も長持ちして発色も良い極上のものができます。よろしければ、お帰りにお持ちなっては? 府夫人(王妃の母、対して父を府院君の尊称で呼ぶ。この場合は中殿の両親である領議政夫妻を指す)にことづけて下さい」
と、領議政は噛みつくような口調で言った。
「そのような悠長なことを仰せになっている場合ではございませんぞ」
おや、と、大妃は細い眼を瞠った。いつもは憎らしいほど冷静沈着な―まったく、この兄が動転することがあるのかと妹ながら疑いたくなるほど―兄がこんな風に露骨に狼狽えるのはあり得ない。
何かよほどの事態がしゅったいしたに違いなく、嫌な胸騒ぎに見舞われた。
「兄上、何があったというのです?」
領議政は今、文机を真ん中にして上座の大妃と向かい合っている。彼は更に身を乗り出すようにして、大妃に近づいた。それで、大妃は兄がよほど他人に聞かれたくない話をするのだと知った。
「まったく、とんだ女狐でした」
「女狐―とは」
大妃は言いかけ、ハッとした。
「まさか和嬪のことですか?」
領議政は幾度も頷き、無理に苦い薬を飲まされたような顔で続けた。
「虫も殺さぬような楚々とした風情でいながら、やはり、お若い殿下はあの女狐めにまんまと籠絡されましたな」
大妃がコホンと咳払いすると、領議政は狸を彷彿とさせる浅黒い顔をひくつかせた。
「これは殿下に対して、とんだご無礼申し上げました。さりながら、大妃さま、あの女狐はとんだ女ですぞ。実は―」
領議政は大妃の耳許に口を寄せ、何事か囁いた。見る間に大妃のこちらは美しいが何とはなしに狐を思わせる面相が蒼白になっていく。
「まっ、まさか、そんなことが」
「儂も最初はこの耳を疑いましたよ。しかし、更に念には念を入れて部下に詳細を調べさせましたところ、和嬪は間違いなくあの男の娘だと判明しました」
その言葉を合図とするかのように、この腹黒い兄妹は顔を見合わせた。
二人にとって、最早とうに記憶の底へと追いやられていたある人物が時ここに至り、急速に浮上してきた。それは思い出したくもない男だった。十五年前、捕盗庁の副官を務めていた蘇承基(ソスンギ)。あろうことか、国王の寵愛第一の側室和嬪は蘇承基の娘だというのだ。
蘇承基を死に追いやったのは他ならぬ自分たちであった。当時、あの男は王命でひそかに兄の悪事を探っていた。兄は当時の内侍府長と結託して、ネタン庫(国庫)の財宝を横流ししていた。悪徳商人に財宝を売り飛ばし、私腹を肥やしたいだけ肥やしていた。
国庫の財宝は紛れもなく王室の所有であり、国に飢饉や災害が起こって民が苦境に喘いでいる際、臨時に開くことがあった。王室の財産で米を買い、餓えに苦しむ民のために粥の炊き出しを行ったりする。
なのに、領議政はその王室の財産を勝手に売りさばいて、私腹を肥やしていた。先代の王は密告でそれを知り、信頼できる捕盗庁の長官と副官に領議政と商人の癒着を暴くようにと命じたのである。
捕盗庁の上官二人は凄腕で頭も怖ろしいほど切れた。忽ち領議政の悪事を突き止め、あわや証拠まで握られてしまった。国庫の鍵を持つ内侍府長を脅迫し、事の次第を洗いざらい吐かせたのだ。
このままでは自分たちは捕らえられ、義禁府送りになる。身の危険を察知した領議政は口を滑らせた内侍府長をまず始末し、その後で真実を知った捕盗庁の二人を殺害した。
当人たちだけでなく、屋敷に刺客を潜入させ、家族から使用人に至るまで皆殺しにさせた上で、火事に見せかけて屋敷ごと証拠を焼き払った。
同日同時刻に起こった火事は明らかに不自然すぎた。しかも、死んだのは捕盗庁の上官二人とあまりにもできすぎた事件であった。にも拘わらず、詮議は形だけなされ、事件は火事として片付けられた。
すべては領議政の思うがままになったのだ。
「でも、どうして、あの男の娘が後宮に?」
当然な疑問に、領議政は苛立たしげに言った。
「大妃さまはお忘れですか? あのときの火事で関係者がすべて亡くなったわけではないのですよ」
「そういえば、上官だか副官だかの幼い娘がゆく方知れずになったということでしたね。では、まさか和嬪はそのときの娘なのですか」
領議政は声には出さず、ゆっくりと頷くことで肯定の意を示した。
刹那、大妃は声を上げそうになった。今となっては遅すぎる感があるが、生き残ったのが上官の娘であるか副官の娘であるか、そんなこともまるで記憶に残っていない。たかだか幼い娘に何ができるかと深く考えもせずに忘れてしまっていた。
どうやら兄もその点は同じであったらしい。
「後々に禍根が残っては、まずい。私もそう思って幾度かは刺客を放ってみたのですが、どうもあの頃から悪運の強い、しぶとい娘であったようで、その度に邪魔が入り失敗しましてね。その中に娘は霞が消えるように、姿を消しました」
「その娘が身を寄せていた先は、どこなのですか、兄上」
「崔氏ですよ。実は私も迂闊で今まで思い至らなかったのですが、今、監察尚宮を務めている崔尚宮の実家がその崔氏だったのです。今回、調べていく中に明るみに出た事実だったというわけで」
領議政は喋っている中に漸く少し落ち着きを取り戻したようだ。だが、当の大妃は青天の霹靂で、到底冷静でなどいられなかった。
「崔尚宮が和嬪の血の繋がった伯母だったというのですか!」
作品名:何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】 作家名:東 めぐみ



