何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】
ユンが鷹揚に言うと、ヒャンダンはこれまでに見たことがないくらい真剣な顔で頷いた。
「さようにございます。実は折り入ってご報告しておかねばならないことがございまして」
ヒャンダンはどこか血の気の失せた顔で訥々と語り始めた。いつもなら立て板に水のごとく能弁なこの尚宮にしては珍しいこともあるものだ。
ユンは何の気なしにヒャンダンの話を聞き始めたが、やがて、その整った顔はヒャンダンに負けず劣らず強ばり、血の気が引いていった。
ヒャンダンが退出した後、ユンは深い息を吐き出し、執務机に片肘をついた。
洪尚宮の話はあまりにも信じがたいものだった。明姫の飼っていた愛犬の死因は病によるものではなく、毒殺だというのだ。
小花の死から丸一日が経過していた。事は急を要すると判断したヒャンダンは今回も宮廷医ではなく、町医者のホ・ソンをひそかに呼び寄せた。彼は町医者ではあるが、腕の立つ医者として知られ、何より嘘と欺瞞が嫌いな男として知られている。
患者は金に困っている貧乏人ばかりなので、治療費もろくに支払って貰えない。それでも、
―また明日な。
と、嫌な顔もせず呑気に手を振りながら帰っていくという噂だ。
この男は以前も明姫が中殿毒殺未遂の容疑をかけられた際、見事に明姫の無実を証明して見せた。
ホ・ソンは小花を葬る前にひそかにその亡骸を検めたのである。彼はぐったりとした犬の体をあちこち触っていたが、やがて、小さな溜息と共に応えた。
―間違いなく、毒を食まされたようですな。それも、かなりの強い毒と見受けられます。恐らくはトリカブトでは。
ヒャンダンの推察は不幸にも当たった。トリカブトは猛毒である。日本でも江戸時代には十代将軍家治の世子、当時十八歳の家基が狩りに出た途中で、急に腹痛を訴え帰城したものの、その日の中に落命したという事件がある。
歴史には病死と記録されているが、中には
―大納言(家基)さまに誰ぞが斑猫(はんみよう)を参らせたのであろう。
と、まことしやかな囁かれたとか。
斑猫とはトリカブトの別名だ。国は違えども、毒殺に用いられることに変わりはないらしい。
ホ・ソンを帰らせた翌朝、ヒャンダンはすぐに大殿に国王を訪ねて事の次第をすべて報告した。
一部始終を聞いたユンは鬱々と考えた。これを明るみにすることは容易い。しかし、ホ・ソンの証言より他に確たる証拠もなく、死んだのは犬一匹だ。明姫やユンにとっては小花が特別な存在でも、所詮は犬一匹だと人は思うだろう。
しかし、問題なのはそこではない。小花は言わば、犠牲になったのだ。明姫の代わりに恐らくは毒を食まされて。
これは恐らく警告ではないかと、ヒャンダンは言った。
―警告?
物騒な科白に眉をひそめたユンに対して、ヒャンダンは表情も変えず淡々と話した。
―申し上げるのも怖ろしいことですが、相手が今回殺したかったのは小花ではありせん。恐らく、敵の最終的な標的は和嬪さまかと思われます。相手は和嬪さまに身を慎め、もしくは分をわきまえろと言いたかったのでは?
―身を慎め? しかし、明姫が一体、何をしたというのだ?
あの控えめな女が殺されるほど憎まれるというのも納得がいかないし、ユンが知る限り、明姫がその要因を作るようなことをしたとも思えない。
その疑問に、ヒャンダンは明快な応えを出した。
―前回の中殿さま暗殺容疑のときと同じです。
―中殿暗殺。あの事件と今回の事件がどこかで繋がっているというのか?
それにはヒャンダンは応えず、こう言った。
―繋がっているかどうかは判りません。また、和嬪さまを陥れようとする不心得者が同一人物かどうかも今のところ即断はできない状態です。ただ、和嬪さまは中殿さまに次ぐ高い地位に就かれ、世子さまのご生母となられました。残念ながら世子さまはお亡くなりになりましたが、和嬪さまの御身には新しい御子さまが宿っておいでです。今回はそれを快く思わない者の仕業であると考えても間違いはないと思われます。
ヒャンダンの瞳はこう告げていた。
(世子さまがお隠れあそばし、敵は胸をなで下ろしました。しかし、和嬪さまのご出産は近づいています。もしまた和嬪さまが王子さま(ワンジヤマーマ)をご出産になれば、今度こそ敵は窮地に陥るでしょう。恐らくは、その前に和嬪さまの御身をどうにかするつもりでないでしょうか。)
―では、どうせよと言うのだ? 明姫を危険から守るためには、どうすれば良い?
ユンは静かな声音で言った。
―和嬪さまを狙う者たちから和嬪さまご自身を遠ざけるしかないでしょう。
ヒャンダンはそこで小さく息を吐いた。次の言葉を待つユンに対して、彼女はまた溜息をついてから続けた。
―ですが、私が思いますに、和嬪さまはご承知しないのではと拝察申し上げます。
―というと?
―この宮殿をお出にならないのではと思います。もちろん私の力の及ぶ限りご説得はしてみますが。
彼女は最後に言い添えることも忘れなかった。
―明姫は見かけによらず強情だからな。
ユンは小さく笑い、もっともだというように頷く。
―はい。
ユンはヒャンダンと顔を見合わせ、笑った。
最後にユンはヒャンダンに訊いた。
―明姫はこのことを知っているのか?
質問にヒャンダンは一瞬、眼を伏せてから、また開いた。
―いいえ、ご存じありません。私の一存でお知らせしませんでした。お知らせして、ご自身でも十分に注意して頂くことが望ましいとも考えましたが、和嬪さまは今、普通のお身体ではありません。かえってご心労をおかけすることになってはと控えております。
―私もそれで良いと思う。よく判断してくれた。礼を申すぞ。
ヒャンダンは微笑み、丁重に頭を下げて執務室を出ていったのだ。
可哀想に、明姫が真実を知れば、どれほど哀しむことだろう。小花は明姫の身代わりとなって毒殺された。今となっては彼女が知らないのがせめてもの救いであった。
ユンはこのときほど洪尚宮の機転に感謝したことはなかった。ヒャンダンを明姫付きにして良かった―と、彼は心から思った。
ユンは先刻のヒャンダンとのやりとりを思い出してから、小さく首を振った。
あの犬はいつも明姫の後をついて歩いていた。小花は生命を賭して敬愛する女主人を守ったのだ。もちろん、小花自身は毒とは知らずに食まされたに相違はなかろうが、それでも、彼(か)の犬が明姫の代わりに身を投げ打ったことに変わりはない。まったく犬ながら、あっぱれな心がけではないか!
ユンは観玉寺で小花が明姫に懐いて離れないのを見た時、内心面白くなかった。愚かな男だとあざ笑れようと、明姫のやわらかな胸に抱かれるのは自分だけだと独占欲を剥き出しにしたものだ。自然、その頃は小花にも邪険な態度を取った。彼の方はユンにも懐いて、しきりに近寄ってきたのに、ろくに構ってもやらなかった。
しかし、こんなことになるのであれば、もう少し優しくしてやれば良かったと苦い後悔が胸をよぎる。もっとも、宮殿に小花が来てからというものは、できる限りのことはしてやったつもりだ。
作品名:何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】 作家名:東 めぐみ



