何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】
世子の母であり、現在も国王の御子を宿している明姫は後宮では中殿に次ぐ重い立場にあった。その明姫の頬を打つからには、その場で切り捨てられてもおかしくはない。それだけの覚悟をもって、友は明姫を生命賭けで諫めてくれたのだ。
ヒャンダンに一喝された瞬間、まさに明姫の迷える心も霧散したのだといえた。
彼女の言うとおりだった。今、死に瀕しているのが我が子であろうと、小花であろうと同じことなのだ。明姫は既に次代の国王となるかもしれない御子をその身に宿している。出産まであとふた月、何としてでも無事に元気な子を産まなければならない。それが明姫に課せられた唯一絶対の使命なのだ。
そのためには、どれほど辛かろうと大切な人であろうと、涙を呑んで別れを堪え忍ばなければならない。
それはユンの側で生きていくと明姫が決めたときから、判っていたはずのことだ。ユンがかつて私情よりも朝廷の意見を優先させて明姫を廃妃としたように、明姫もまた今は私情は殺さねばならないのだ。
国王、或いは王室の一員として生きるというのは、そういうことなのだから。
「和嬪さま」
ヒャンダンもまた涙ながらに明姫を見上げた。
「どうか、いつまでも私の側にいてね。そして、こんな頼りない私を助けてちょうだい、ヒャンダン」
明姫の言葉に、ヒャンダンは涙を流しながら幾度も頷いた。
愛犬小花が静かに息を引き取ったと知らされたのは、その日の夕刻であった。知らせを受けて、今度こそ明姫は小花の許へと駆けつけた。ヒャンダンももう止めはしなかった。
チマの裾を絡げ、走りたくても大きな腹が邪魔をして走れない身体を持て余しながらも、小走りに急いだ。
ここ数日見ない間に、小花はすっかり痩せ衰えていた。具合が悪くなったのは昨夜からだというが、もしかしたら、もっと前から病気だったのではないか。
明姫が小花を腕に抱いたのは三日前のことである。そのときは別段、健康そのものに見えたのに。明姫は痩せてしまった小花を膝に抱き、すすり泣いた。
「可哀想に、苦しかったでしょう。最後に側にいてあげられなくて、ごめんね」
廃妃として都から遠く離れた観玉寺で過ごした日々を小花は多少なりとも明るくし、明姫を力づけてくれた。
―淑媛(スクウォン)さま(マーマ)、どうか小花のことをよろしくお願いします。
黒い瞳をきらきらさせて真っすぐに自分を見ていた少女ソリの笑顔が鮮やかに甦る。結局、自分はソリとの約束を果たせず、小花をこんな形で死なせてしまった。
もう、自分はソリに顔向けはできない。
「和嬪さま、あまり長居はできません。小花は私どもが手厚く葬りますゆえ、どうぞお部屋にお戻り下さい」
ヒャンダンに促され、明姫は小花と名残を惜しむことすらできず、すごすごと部屋に戻るしかなかった。ヒャンダンがそのように計らったのは、やはり自分の身体を気遣ってだということは判っていた。もし小花が病気で亡くなったのなら、腕に抱くことすら危険なのだ。
それでも、最後の一時、小花を抱かせてくれたのはヒャンダンなりの譲歩であり優しさなのだと判っていた。
明姫を他の女官に任せて居室に送り届けたのを確認し、ヒャンダンは冷たくなった小花の骸(むくろ)を抱きしめた。
「お前は最後まで立派だったわ。和嬪さまのご恩を忘れずにいて、和嬪さまのために身代わりになったのね」
そう、小花は病気などで死んだのではない。毒を食(は)まされたのだ。まだ医師に確認を取ったわけではないけれど、ヒャンダンには多少の薬草の知識がある。この苦しみ様や死に方は、かなりの猛毒を使われた可能性が否定できなかった。
毒殺である可能性は極めて高いが、かといって、今の段階では病であるとも考えられる。それゆえ、大事を取って和嬪を小花に近づけなかったのだ。
小花は、信頼できる若い女官と二人で殿舎の裏庭に埋めた。小さなこんもりとした盛り土には印も何もなく、時が経てばここに主人の代わりに犠牲になって死んだ哀れな犬が眠っていることなど、誰も忘れ去るだろう。
ヒャンダンは盛られた土の上に一輪の白い花をそっと乗せた。それは明姫が自室の鉢から一輪だけ摘み取った愛犬への手向けの花であった。いつもは咲いている花を摘み取ることは殺生に等しいと厳しくたしなめる明姫自身がこのようなことをするのは極めて珍しい。
明姫がいかに小花を大切に想っていたかが知れた。
これは後の話になるが、明姫から頼まれてヒャンダンが小花の墓に供えた花は何と、種が落ちて自生したらしく、後年には一本の花がそこに生えた。
?忠犬花?と別名を讃えられたその花は、いつしか主人になりかわり落命した犬の名を取って?小花?と呼ばれるようになった。花はその後、何株も増え、何代も後の王の御世になっても、純白の薔薇にも似た不思議な水仙の花を咲かせ、辺りには常にこの世のものとも思えない芳香が漂っていたという。
その樹の由来は朝鮮王朝時代後期を風のように駆け抜けて生きた和嬪という女性像を今に伝える逸話ともなっている。
小花の死は大殿の国王ユンもむろん、少し遅れてではあるが知ることとなった。
「そうか、あやつが亡くなったのか」
ユンは複雑な溜息をついた。明姫が可愛がるものはたとえ犬であっても、嫉妬めいた感情を抱(いだ)いてしまう彼である。だが、長らくこの宮殿の一角で飼われている間には、ユンもまた小花の様子を見にいったこともあるし、それなりの情を抱くようになっていた。
小花という名ではあるが、あの犬は雄であった。観玉寺では、いつも明姫の側を離れず、忠義な従者よろしく明姫を守っていた。今もその姿が眼に灼きついて離れない。
宮殿に戻ってからは、流石に寺にいた頃のようにはゆかず、小花は大好きな明姫とは引き離されることになった。しかし、明姫の住まう殿舎の一角に立派な犬小屋を与えられ、そこで専門の世話係がつき大切に世話されていたはずだ。
最近では、ユンは小花と自分は同じ女を慕う者同士で、あの犬に対して友愛に近い気持ちを持っていた。その小花が突然、病にかかって亡くなるとは、世の中は判らないものだ。観玉寺にいた頃はほんの子犬だったのだから、まだせいぜい二歳くらいのものだろう。間違っても、寿命が尽きる歳ではない。
小花の死を持ってきたのは、黄(ファン)内官(ネガン)であった。ヒャンダンと恋仲の息子の方ではなく、父の黄孫維の方である。ユンがしばらくやるせない感慨に浸っていると、黄内官が再び顔を見せた。
「殿下、和嬪さまにお仕えする洪尚宮が参りましてございます」
「洪尚宮? 一体、何事だ。明姫に何かあったのか?」
少し語調が強くなったユンに対して、黄内官は首を振る。
「和嬪さまにおかれましては特にお変わりなくお過ごしと聞いておりますが、その他に危急お耳にいれたきことがあると」
「判った、通してくれ」
頷くと、黄内官が出ていくのと入れ替わりにヒャンダンが恭しく入室してきた。
「殿下、お忙しいときに申し訳ございません」
「いや、良いのだ。それよりも、いかがした? 明姫に付いているはずのそなたがわざわざ大殿までやって来るとは。それほどの火急の用件なのか?」
作品名:何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】 作家名:東 めぐみ



