何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】
明姫の身体が鞠のように一瞬、跳ねた。
「啼け、明姫。もっと啼いて、可愛らしい声を私に聞かせてくれ」
ユンは何ものかに憑かれたかのように、明姫をひと息に貫き、下から烈しく突き上げる。
「まだだ、何度抱いても、まだ足りぬ」
ユンの掠れた声が耳許で聞こえたような気がしたが、明姫の意識はそこで途切れた。
恋人たちの夜は危うさと熱さを孕み、狂おしく過ぎていった。
謀(はかりごと)
その朝、明姫は縫い物をしていた。生まれてくる子どもの足袋(ポソン)を縫っていたのだ。世継ぎがいない現在、明姫としてはウンに続く第二王子をあげることが何よりの務めだとは心得ている。
しかし、明姫は何故か、今度は女の子のような気がしてならない。が、ユンは今度もまた王子をと口にこそ出さないが、期待しているのは判っていた。そんな彼に心中を告げられるはずもなく、明姫はその想いは一人胸に秘めている。
が、用意するものは、どうしてもそのせいか、女児向きのものばかりになってしまうのは致し方ない。もう足袋はすっかり出来上がっていて、今はくるぶしの辺りに、小さな刺繍を入れているところだ。刺しているのはウンとの忘れられない想い出―あの夏のひとときを彩った撫子の花であった。
右側は完成しているから、後は左側さえ済ませれば出来上がる。小さな愛らしい足袋に咲く薄紅色の花を見つめ、明姫は微笑んだ。愛おしげに花を指でなぞったその時、扉の向こうから声が響いた。
「和嬪さま、洪尚宮にございます」
「入って」
顔は動かさず声だけで返事すると、ほどなくヒャンダンが入ってくる。
「可愛い刺繍でございますね」
ヒャンダンはしばし明姫の手許を見つめていた。明姫はつと顔を上げた。
「どうしたの? 様子がおかしいわ」
顔を見る前から、判った。ヒャンダンとは長い付き合いだし、明姫は他人の顔色を見ることに長けている。いつものヒャンダン特有の纏う明るい空気が別人のように重く淀んでいた。
改めて視線を合わせると、ヒャンダンは座椅子(ポリヨ)に座った明姫と文机を挟んで向かい合う。明姫の背後には紅梅と白梅の花と鳥を対にしてそれぞれ描いた色鮮やかな屏風があり、傍らの紫檀の卓にはユンから贈られた清国渡りの珍しい水仙が芳香を放っていた。
「実は、小花の様子がおかしいのです」
「小花の?」
明姫は刺しかけの刺繍を傍らに置き、ヒャンダンと向き合った。
小花というのは観音寺から連れてきた犬である。麓の村のソリという幼い少女が捨て犬として拾ったのを明姫が引き取り都に伴った。二年前はまだ子犬だった小花も今は成犬となった。今は明姫の住まうこの殿舎の一隅で大切に飼われている。
「様子がおかしいとは?」
我が子も同然に可愛がっている犬だけに、明姫は気になり、真摯な視線をヒャンダンに向けた。
「それが」
ヒャンダンは口ごもった。普段、はきはきと物を言う彼女にしては極めて珍しいことである。
「何やら食あたりでもしたらしく、今朝から何度も吐いてしまって」
更に詳しく事情を問えば、小花の様子がおかしかったのは昨夜からだという。どうも元気がなく、夕飯もいつもなら担当の女官が運んでくると、尻尾を振って歓んで食べるのに、見向きもしなかった。
犬小屋の中に円くなって横たわり、じいっと眼を瞑っているだけだった。それが朝になって世話係が様子を見にいくと、犬小屋の中にも外にも吐瀉物が散乱していたそうだ。
あまりにも何度も吐くので、最後は血まで吐いたという。
「ただ事ではないわね」
明姫は立ち上がった。咄嗟にヒャンダンが顔色を変える。
「どこにお行きになるのですか? まさか小花のところではないでしょうね」
「もちろんよ」
「いけません」
ヒャンダンは両手をひろげて、その前に立ちはだかった。
「何をするの、そこをどきなさい」
明姫がいつになく語気も荒く言うのに、ヒャンダンは怖いくらい真剣な顔で首を振った。
「確かに小花の様子は尋常ではありません。だからこそ、私は和嬪さまにここをお通しするわけにはゆかないのです」
「どういうこと? 私が身籠もっているから? そんなのは関係ないわ。小花は我が子も同然の犬なのよ。病気になって苦しんでいるのに、知らないふりなんて、できない」
明姫の眼に熱いものが滲んだ。ウンの死が知らされたのは、既に幼子が旅立った後のことだった。懐妊中のため、大事を取り、明姫には最後まで知らされなかったのだ。
代わりに嫡母である中殿がウンを看取った。明姫に容態の急変を知らせないことは医師の判断でもあり、中殿もそれに同意したのだと聞かされた。
結局、明姫はウンが冷たくなってから、その小さな身体を抱いた。本当は抱くことも許されなかったのだが、ユンがこれを許可したのだ。
―そなたの身体には今、大切な御子が宿っている。世子がなくなった今、王室の引いてはこの国の未来がそなたの腹の子にかかっていると申しても過言ではない。辛いだろうが、どうか堪えてくれ。
中殿に道理を分けて諭されれば、どうして恨みがましいことなど言えようか。
でも、あんなのはもう二度とご免だ。大切な人、愛おしい者の最後すら看取ってやれないだなんて、あまりにも哀しすぎる。ウンだけでなく小花までも、たった一人で逝かせることはできない。
明姫は溢れそうになった涙をまたたきで散らし、ヒャンダンの脇をすり抜けて行こうとした。
その時、突如として乾いた音が静寂に響き渡った。そのパァンという音とともに、ヒャンダンがその場に平伏した。
明姫はたった今、ヒャンダンに打たれた頬を押さえたまま茫然と彼女を見下ろした。
「お許し下さいませ。ご無礼の罪は死罪に処して頂くことで償います。ただ、和嬪さまには、これだけは判って頂きたいのです」
ヒャンダンがおもむろに立ち上がり、明姫の両肩を掴み、その顔を真っすぐに見つめた。
「明姫、これは尚宮でもなく、昔からの親友の最後の言葉だと思って聞いて。あなたの気持ちはよく判るわ。可愛がっている小花の様子を見にいくこともできないのは理不尽だと腹を立てているのでしょう。でもね、あなたの身体はもう、あなた一人のものじゃないのよ。国王殿下には御子が一人もいらっしゃらず、お世継ぎもいない。誰もがあなたのお腹にいる子の無事な誕生を待ちわびているの。その子はいわば、この国の民の希望、光でもあるのよ。そんな大切な御子を宿しながら、もし、あなたが質の悪い病気にかかってしまったら、どうなると思うの?」
明姫の眼に涙が溢れた。それは友の、唯一の親友の心からの言葉であった。
「どうか私を死罪に処して下さいませ。たとえいかなる理由があろうと、和嬪さまの尊いお身体を手に掛けたこの罪は死んで償わねばなりません」
ヒャンダンが再びその場に手をつかえ、頭を垂れた。明姫は涙を流しながら、しゃがみ込み、ヒャンダンをそっと抱きしめた。
「ヒャンダン、私にあなたを殺すなんて、できるはずがないじゃない。しかも、あなたは愚かな私を身の危険を覚悟で諫めてくれた。あなたを失ったら、私はこの世でたった一人の親友をなくしてしまうことになる」
作品名:何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】 作家名:東 めぐみ



