何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】
明姫は微笑み、頷く。
「珍しいわよね」
「水仙と崔尚宮さまはおっしゃいましたが、私にはどこから見ても薔薇にしか見えません」
ヒャンダンが首を傾げている。明姫は笑った。
「私にも薔薇にしか見えないけど。でも、崔尚宮が水仙だと言うのなら、間違いなく水仙でしょう。それに、薔薇にしては形がちょっと水仙っぽいし、葉っぱは、これはもう完全に水仙のものよ」
と、ヒャンダンがクスリと笑った。
「え? 私、何かおかしいことを言ったかしら」
「薔薇にしては形がちょっと水仙っぽいだなんて、いかにも和嬪さまらしいおっしゃり様ですわね。そう思いましたら、少しおかしくなってしまって。ご無礼致しました」
「どうせ昔と変わらないって言いたいんでしょ。ヒャンダンの言いたいことは全部顔に書いてあるんだから」
明姫は少し口を尖らせる。ヒャンダンはもう、笑いが止まらないようである。
「そんな和嬪さまを私は心からお慕いしているのですから、お怒りにならないで下さいませね」
確かに明姫は、いつまでも変わらなかった。外見だけはどれだけ臈長けて艶やかになろうとも、根本の無邪気で天真爛漫な少女の部分は今も少しも変化していない。ユンが明姫を熱愛するのも、この変わらない性格のせいもあるのはもちろんだ。
明姫はぷりぶりと怒りながら、途中止めになっていた食事に取りかかった。
「いつまでも、そこで一人で笑っていると良いんだから」
「申し訳ありません。私としたことが気づきもしませんでした。すっかり冷めてしまいましたから、温め直してくるように申しつけましょうか?」
ヒャンダンが素知らぬ顔で言うのに、明姫は首を振る。
「良いわ。わざわざ厨房まで運んでいって、また持ってこなければならないのは大変よ。少しくらい冷めていたって、私は平気だから、このまま食べてしまえば良いわ」
明姫は明るく言うと、旺盛な食欲を見せて食事を再開した。しばらく箸を動かしていると、ヒャンダンの物言いたげな視線とぶつかる。
「まだ何かあるの?」
ヒャンダンは、にっこりとした。
「私は和嬪さまのような御方にお仕えできて、本当に幸せ者です」
「いやだ、何を言い出すかと思ったら。こんな朝早くから、照れるじゃない」
明姫は紅くなり、照れ臭さをごまかすようにうつむいた。その刹那、小卓の上に並んだ器の一つに眼が止まった。
窓から差し込む朝の光にキラリと輝いたのは―。明姫の黒い瞳が一瞬、大きく見開かれた。彼女は手を伸ばし、その器から光るものをつまみ上げた。
「和嬪さま、いかがなさいました?」
ヒャンダンが訝しげに言い、近寄ってくる。明姫はただ茫然と手のひらに載せたそれを見つめていた。
「これは―針ではありませんか、和嬪さま」
ヒャンダンの顔から見る間に血の気が引いていった。
「一体、何ものの仕業でしょう。畏れ多くも和嬪さまの召し上がる御膳に針を仕込むなどと」
ヒャンダンは蒼褪めたまま、強い口調で言った。
「もう、これは見過ごしにはできません。和嬪さまが何と仰せになろうとも、私は国王殿下に事の子細をご報告します」
「ヒャンダン」
明姫がか細い声で呟き、救いを求めるようにその両手が差しのべられ、空(くう)を掻いた。
ヒャンダンが慌てて、頽(くす゜お)れそうな明姫の身体を支える。
「何故? 何故なの。私はどうして、これほどまでに憎まれるの?」
「和嬪さま―」
ヒャンダンの声も震えた。明姫の瞳には言いしれぬ哀しみが揺れていた。
「私が辛いのは死ぬことではない」
ユンと出逢え、束の間でも女として幸福なひとときを過ごせた。その幸せの代償をこの生命で購えというのなら、潔く差しだそう。
明姫はヒャンダンの肩に頬を寄せ、囁いた。
「私が何より辛いのは、死ぬことではなく、誰かが私の存在を消し去りたいと思うほど、その人に憎まれているということよ」
その瞬間、明姫の瞼には様々な人の貌が浮かんでは消えた。大妃、ユンの側室たち。明姫の存在をこの世から永遠に抹殺したいと願う人間なら、この他にもたくさんいるだろう。
だが、何故、我が身がここまで憎まれねばならないのか。それが明姫には判らない。ただユンに出逢い、彼を心底から愛し、彼もまた明姫を愛しいと言ってくれた。それの何が悪くて、いけないのだろうか。
理由は明姫にも判っていた。それはユンが国王、この国を統べる王だからだ。ユンが市井に生きるただの男であれば、明姫がここまで憎しみの対象となることはなかったはずだ。後宮の女であれば誰もが国王の眼に止まり、その寵愛を受けたいと願う。いずれは側室となり、王子を生んで世子の母となりたいと野望を抱く。
だが、明姫は一度でもそんなことを考えたことはないのだ。ただ愛する男の傍にいて、その人の子どもを生み、ささやかでも良いから幸せな家庭を築きたい。そう願ってきた。
だが、天は世の常の女が願うすべてのものを明姫に与えた。この国で至高の存在とされるただ一人の男に愛され、側室として王妃に次ぐ地位に就き、世子の母となった。
けれど、何も自分はそんなことを望んだわけではなかった。明姫はユンを王とは知らずめぐり逢い、恋に落ちた。彼が国王だと知ってからは、自ら身を退こうとさえしたのだ。
結局、明姫が彼の側に居続けることを決意したのは、彼への愛情からに他ならなかった。ずっと愛する男の傍にいたい、その一心で国王たるユンの側で生きていくと決めた。そのことで、どれだけ辛い想いをしようとも、乗り越えて見せると覚悟もした。
だが、現実はあまりに過酷すぎる。世子となった幼い我が子は天に奪われ、今、明姫に残っているのは、この身に受ける憎しみだけだ。ユンとお腹の子どもへの想いだけで何とか自分を奮い立たせて生きているというだけにすぎない。それほどまでに今の明姫は脆くなっている。
ヒャンダンとこうやって交わす軽口の言い合いも、ほんの空元気で見せかけだけ。恐らくはヒャンダンもそのところは十分判ってくれているはずだ。
「私がついています。けして誰も和嬪さまの御身には触れさせません。だから、どうか泣かないで下さい」
ヒャンダンは明姫を姉のように抱きしめた。二人は抱き合い、いつまでも泣いていた。
その夜になった。ユンはその夜、いつもよりは訪れが遅かった。滅多にないことではあるけれど、政務が山積したときには大殿の執務室でそのまま夜を明かすこともある。
そんなときは大殿の寝所にすら入ることなく、書類の決裁に追われていると聞くから、やはり国王というのは様々な意味で重責を担っており、一国を統べるというのは生半な気持ちではできないものだと思うのだった。
両開きの戸が外側から音もなく開き、ユンがいつものように入ってくる。明姫は立ち上がり、一礼してユンを迎える。これもまた、いつものことだ。
二人が夜を過ごす褥の側には酒肴の並んだ小卓が用意されている。ヒャンダンは既に気を利かせて、廊下に控えていた。
二人きりの寝室で、ユンはいつになく怖い顔をしている。明姫はその原因に思い至らないまま、恐る恐るユンに訊ねた。
「殿下、何ゆえ、今夜はそのように怖いお顔をしておいでなのですか?」
作品名:何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】 作家名:東 めぐみ



