何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】
遠くから見ても、その表情は孫を案ずる祖歩そのものであった。ウンを連れた王妃と大妃一行は早足で去っていき、明姫は茂みの影に隠れていたため、見つかることはなかった。
ウンが大妃には憎まれておらず、むしろ可愛がられている、大切にされていると知り、むろん嬉しくないはずがない。
しかし、自分がウンを抱いて挨拶に訪れても、大妃は大妃殿から出てくることは一度もないのだ。大抵はお付きの朴(パク)尚宮が出てきて
―大妃さまはただ今、ご気分が悪く伏せっておられます。
と、慇懃無礼な言葉が返ってくるだけだ。
正妻と側妾、確かにその違いはあれども、立場は中殿も明姫も同じ嫁のはずであった。が、大妃は中殿には微笑みかけても、明姫にけして笑顔を見せることはない。
幾ら家門が逼塞しているからといっても、自分だって両班(ヤンバン)の娘だ。しかも父親は捕盗庁(ポトチヨン)の副官を務めるほど前国王の信頼も厚かった。けして身分が低いわけではない。
やはり、大妃はどこまでも自分を憎んでいる。その事実を眼前に突きつけられたようで、哀しかった。その日だけは自分の居室に帰ってから、一人で泣いた。
ウンが亡くなってから後、大妃は大妃殿から出ることは滅多となくなった。
お付きの尚宮には
―どうせ先行きの短いと知れる年寄りが代わってやれればのう。
と涙ながらに繰り返していると、これは女官たちの口づてに耳にした近況である。
この先も大妃と自分が解り合える日が来るとは到底思えなかった。とはいえ、ユンにとって大妃は大切な母である。たとえ母子の仲が冷え切っているとはいっても、血の繋がりは無視できないものがある。
かつて大好きな祖母と母が終生相容れぬ間柄であったと打ち明け、それが淋しかったと明姫に語ったユン。あのときの淋しげな瞳を思い出せば、どれほど大妃に疎まれようと、何とか嫁として受け容れて貰えるようにずっと力を尽くすつもりだった。
波乱
鼠の死骸事件の後、しばらくは何事もなく無事に過ぎた。二月に入り、明姫は妊娠八ヶ月を迎えた。この頃には腹部は急速に大きくなり、胎児の動きもますます活発になった。
暦が二月に変わったばかりのその朝、明姫は身支度を整えた後、いつものようにヒャンダンの給仕で朝食を取った。
その時、扉の向こうで控えめな声がした。
「和嬪さま、国王殿下よりの賜り物が届いております」
明姫はヒャンダンと顔を見合わせた。
「入りなさい」
声をかけると、ほどなく扉が静かに開き、二人がかりで大きな鉢を抱えた女官が入ってくる。
「これは?」
小首を傾げた明姫の声に応えるように、女官たちの背後からゆったりとした足取りで入室してきた者が言った。
「畏れ多くも清国の皇帝陛下より賜った早咲きの水仙にございます」
?伯母上?と思わず呼びかけそうになり、明姫は慌ててコホンと小さく咳払いをした。
元は大妃殿詰めで、今は監察(カムチヤル)尚宮となっている崔尚宮である。捕盗庁の副官であった明姫の父は十五年前に領議政(当時は左議政)白勇修(ペク・ヨンス)に殺された。ペク・ヨンスは大妃の同母兄であり、また中殿の父、今一人の側室賢嬪の養父でもある。
つまり、ユンの母方の伯父にも当たるのだ。今の王室がいかにペク氏と血縁的に深い関わりがあるか自ずと知れるというものである。殺害された当時、明姫の父は上官の捕盗庁従事官(チョンサンガン)とともに領議政を調べていた。
というのも、領議政が国庫の財宝を不正に横流ししているという疑惑が密書として上奏され、先代の国王が捕盗庁の長官と副官に内密に領議政の罪状を暴くようにと王命を出したのだ。
ところが、領議政もみすみす尻尾を掴ませるような小者ではない。彼は逆に国王側の動きを察知し、明姫の父とその上官はそれぞれ同じ日の夜、火事に見せかけた付け火で焼き殺された。その前に予め領議政は手の者を屋敷に潜入させ、家族はむろん使用人に至るまで皆殺しにさせていた。その上で、証拠を消し去るために屋敷に火を放ったのである。
その時、明姫だけが一人隠れていて難を逃れた。明姫は使用人の中ではただ一人生き残った執事に連れられ、生命からがら屋敷から脱出し、母の実家崔氏に身を寄せた。
しかし、その後も幾度も幼い明姫が生命を狙われることが続き、伯母の崔尚宮は幼い姪を守るため明姫を女官として後宮に入れたのであった。
崔尚宮の目論見は的中し、明姫は以後、生命を狙われることもなく成長したのだ。が、かつて惨殺された捕盗庁副官の娘であると知られてはまずいため、明姫は身分を偽り、崔尚宮の知り合いの金氏の娘として届け出ている。
明姫が復位し再入宮してからまもなく、崔尚宮は監察尚宮に抜擢された。監察尚宮は後宮副女官長を兼ね、後宮では二番目の実力者になる。それはむろん崔尚宮の人柄と有能さを見込んでのユンの決断ではあったが、やはり、実の伯母が監察尚宮の地位にあれば明姫も何かと心強いだろうというユンの配慮ではあった。
しかし、幾ら国王とはいえども、後宮人事に本来であればユンは口出しはできない。後宮内の采配はすべて王妃にその決定権があるからだ。が、ユンの意を受けた王妃は鷹揚に崔尚宮を監察尚宮に昇格させた。王妃自身もかねてから崔尚宮の能力は高く評価していたからだ。
誇り高く潔癖な王妃は叔母である大妃と気性も容貌もよく似てはいたけれど、決定的に違うところがあった。それは良人の王の立場を慮り、できる限り、その意向に添いたいと考え行動するところだ。
また下位の者に対する慈悲深さも備えている。どちらが王妃としての徳を生まれながらに備えているかは一目瞭然だ。また、そんな王妃だからこそ、ユンも結婚後年数を経てもなお、王妃を重んじているし、良人しての情を王妃に幾ばくかでも抱いているのであった。
「清国の皇帝陛下より賜った?」
明姫は愕きに眼を瞠り、女官二人がようやっと運んできた水仙に眺め入った。
「昨日、届けられたそうでございます。ご懐妊中の御身には何かと心むすぼれることも多かろうと、これをご覧になり少しでも気散じせよとの国王殿下の深いご配慮かと思われます」
崔尚宮は人前では、けして私情を見せない。今も恭しく述べると、一礼した。
「見事なものですね」
それだけで値打ちがあろうかと思われる青磁の鉢には唐草模様が複雑に刻み込まれている。植わっているのは数本の水仙だ。花の一つ一つが大ぶりで、水仙に見えないこともないが、どちらかといえば白い薔薇と言われても納得するかもしれない。
葉の形は完全に水仙なので、ちょっと見た目には白薔薇に水仙の葉がついているようにだ。何とも不思議な形の花であった。
大輪の咲き誇っている花に顔を寄せると、甘い芳香が鼻腔をくすぐる。
「清国でもつい先頃、開発されたばかりの大変稀少なものだと聞いております」
「そうなの」
明姫は頷いた。
「重たきものをわざわざご苦労であった。国王殿下には、しかとお礼をお伝えして欲しい」
明姫もまた主人として崔尚宮に対し、崔尚宮はまたも丁重に返事をしてから女官を引き連れ去っていった。
「それにしても、綺麗ですね」
ヒャンダンと二人だけになると、早速、彼女が歓声に近い声を上げた。
作品名:何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】 作家名:東 めぐみ



