何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】
「お止めなさい。滅多なことを言うものではない。中殿さまは亡くなられた世子さまをわが子のように慈しんで下されたのよ。ご自分がお生みになったわけでもないのに、深い愛情を注いで下さった。あの方に限って、それはあり得ない」
王妃は愚かな人ではない。むしろ誰より誇り高く聡明な女性だ。だからこそ、ユンもまた、どれだけ王妃との間に隔たりができようとも、王妃を妻として遇し大切にして重んじている。
王妃が亡きウンに注いでくれた愛情は偽りのないものであった。王妃も生身の女だから、心中が穏やかであったとは言い難い面もあっただろう。それは同じ女性として明姫にも理解できる。
自分が後宮を下がって実家にいる間、やむないこととはいえ、ユンが二人の新しい側室を閨に召したと知ったときは衝撃も受けたし、もちろん嫉妬も感じた。女とはそんなものだ。好きな男には常に自分だけ見ていて欲しいと願う。それが自然な女心なのだ。
ゆえに、ユンが明姫に心を傾けている今、彼の妻である王妃が嬉しかろうはずがない。ましてや、自分に子はなく、側室が生んだ子が世継ぎとなったのだ。だが、それでもなお、王妃は心中を表に出さず、ウンを世子と認めた上で息子として可愛がってくれた。
そのことを明姫はどれだけありがたいと思ったか知れない。生んだのは側室である明姫でも、表向きは正妻の王妃を嫡母として育てば、ウンの将来も盤石なものとなることは判っていた。
また、あれだけ誇り高い人である王妃がこのような―鼠の死骸を王と側室が過ごす褥に潜ませるような愚かなことをするはずがない。こんな子どもじみた愚かな悪戯をするのは、絶対に王妃ではない。それだけは断言できる。
「それなら、誰が」
ヒャンダンは言いかけて、ハッとした顔で口許を押さえた。
「まさか、この殿舎に内応者がいるのでしょうか?」
口にしたヒャンダン自身があまりにも重大すぎる事実に思い至り、蒼褪めている。
「先ほども言ったはずよ。無闇に誰かを疑ったり、根拠のないことを口にするものではないと」
「お言葉ですが、和嬪さま、今回はこのような子ども騙しの悪戯程度で済みましたが、次はもっと悪戯が深刻になることも考えられます。それに、今回の件も単なる悪戯にしては質が悪すぎるようにも思えます」
鼠の死骸を潜ませていた場所が王と妃が一夜を過ごす褥の内というのが気になる。そこから王の寵愛を一身に受ける明姫への妬み―引いていえば、誰か別の妻妾がやったと想像できてしまうところが怖い。仕掛ける悪戯の内容そのものが犯人を女と連想させるのだ。
「ここはやはり、大事に至る前に殿下に申し上げて、このような馬鹿げた悪戯をしでかした者を突き止めた上、厳しく罰して頂かなくては」
「それはならぬ」
いつもは打ち解けた友達同士のような物言いをヒャンダンに対してはする明姫も、このときだけは違った。凜とした声音で断じた。
「後宮内での揉め事をいちいち殿下にお伝えして、御心を煩わせてはなりません。それでなくても、殿下は連日のご政務でお疲れなのです。これ以上、つまらぬことでご心労の種を増やしたくはない」
表の宮殿が国王の公邸であるなら、後宮はいわば私邸に当たる。即ち、ユンにとって後宮は家庭そのものなのだ。その家庭内での―しかも女同士の諍いを一つ一つ彼に告げたところで、何になろう。かえってユンの悩みの種を増やすだけだ。
「家庭が上手く治まってこそ、殿方もまた心置きなくお勤めに励むことができるというもの。後宮は広しといえども、殿下にとってはまさに家庭なのだから、根拠のない悪戯をお話ししたところで、殿下のお心を曇らせるだけよ」
「承知しました」
ヒャンダンも馬鹿ではない。明姫の言い分はもっともだとすぐに理解したはずだ。この忠実な女官の懸念はもっと別のところにあるはずだと、明姫もまたヒャンダンの心を正しく見抜いていた。
その明姫の想いに応えるように、ヒャンダンは憂い顔で告げる。
「和嬪さま、私は不安でなりません」
「あなたが私のことをいつも自分の身より心配してくれているのは十分判っているつもりよ」
明姫はまたいつもの口調に戻って微笑む。それでもまだ深刻な面持ちのヒャンダンに対して、明姫は優しく問うた。
「一体、何がそんなに不安だというの?」
ヒャンダンは少しの逡巡を見せた後、声を潜めた。
「不安は二つあります。まず一つは先刻も申し上げましたように、今日はこの程度の悪戯で事なきを得ましたが、次回はもっと悪質なものになったらと―申し上げるのもはばかられることながら、大切な和嬪さまの御身に何かあったりでしたらと不安でならないのです」
ヒャンダンはここで更に声を落とした。
「あと一つは、内応者がこの殿舎にいる可能性が高いということです。ここにお仕えする女官たちは下働きに至るまで、私が直接に面接して信頼に足る者を集めたはずなのですが、宮殿に和嬪さまがお戻りになってから、年月も経ち、一部の女官たちが入れ替わり、すべての者が昔どおりというわけではありません。それゆえ、余計に不安なのです」
「ヒャンダン、他人をいちいち疑っていては、キリがないわ。疑おうと思えば、何だって疑わしく思えてくるものでしょう」
幼い明姫がまだ入宮したばかりの頃、伯母の崔尚宮が言い聞かせた科白を明姫はまだ忘れてはいない。
―人を疑えばキリがない。逆に、自分が相手を信じれば、相手もまた自分を信じてくれる。疑惑は疑惑を生み、いつしか、その者は疑心暗鬼の塊となり、宵闇に揺れる枯れた花を見ても幽霊かと思い込むようになるであろう。良いか、明姫。相手に誠実になって欲しくば、まずは己自身が誠を尽くすことだ。
「和嬪さまの気高いお心は尊いものだと思います。ですが、後宮というのは、それほど生易しいものではありません。私は和嬪さまのそのお優しさがいつか和嬪さまの御身を危うくするのではないかと心配で居ても立ってもいられません」
ヒャンダンはうっすらと涙ぐんですら、いた。
「大丈夫よ。私だって、幼いときから入宮して、後宮というところを嫌になるほど見てきたわ。だから、後宮の怖ろしさはこれでも、知ってはいるつもりよ。でもね、私は最後まで人を信じたいの。どんな人でも根っからの悪人はいないでしょう。だから、私が誠意を持って接すれば、きっと向こうも判ってくれる」
「和嬪さま」
ヒャンダンがとうとう泣き出した。
「和嬪さまの御身に何かあったら、私は生きていられません。それでなくとも、ご懐妊中の大切なお身体です」
明姫は微笑んだ。いつかの夜、ユンは言った。
―そなたのいなくなった人生など考えられぬ。
そして今、ヒャンダンも同じことを言う。自分は何という幸せ者だろう。最愛の良人、更に、第一の側近にして友人のヒャンダンからも同じ言葉を貰えた。これ以上の幸せがあるだろうか。
「私だって子どもじゃないわ。自分の身が危険に陥りそうになったら、ちゃんと逃げるし対処できるから」
明姫が安心させるように明るく微笑むのに、ヒャンダンは洟を啜った。
「ヒャンダンってば、子どもみたいね」
明姫は袖から手巾を取り出し、ヒャンダンの涙を拭いてやる。
「勿体ない」
作品名:何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】 作家名:東 めぐみ



