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何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌~【完全版】

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 不機嫌に呟くユンに、明姫は呆れ果てたが、側にいたヒャンダンは国王の明姫への寵愛の厚さに純粋に感動していた。
 小花はユンにも懐いていて、彼を認めると、ワンワンと歓んでじゃれついた。すっかり不機嫌になっているユンはおざなりに撫でてやっただけで、構ってやろうともしない。あれでは犬にまで嫉妬しているようで、当人のユンが真剣なだけに笑える光景ではあるのだが、明姫にしては嬉しいような、くすぐったいような気持ちだった。
 ユンのあのときの複雑そうな表情を思い出すと、どうしても笑ってしまいそうになる。
 その想いが出てしまったのか、輿の横の引き戸越しに覗いたヒャンダンが不思議顔そうな顔で訊いてくる。
「いかがあそばされました?」
 明姫は、ううんと首を振る。皆の手前、澄ました表情を取り繕った。
「何でもありません」
 輿の引き戸を開けているので、今、中にいる明姫からも外がよく見える。
 見送りの最前列には、慈慶、慈鎮がいる。観玉寺の人たちは寺男一家まで総出で見送ってくれた。
 昨夜、慈鎮に別離を告げた時、彼は細い眼許に穏やかな笑みを宿して言った。
―おめでとうございます。どうぞお健やかに、御身が幾久しくお栄えになりますように。ご無事のご出産をここから日々、祈念いたしております。
 この数年後、住職の慈慶が亡くなり、二十五歳の慈慶が若くして次の住職となっている。
 清慈や慈然は泣いていた。幼い彼らには、明姫は綺麗で優しいお姉さんのような存在だったのだ。ちなみに、ずっと後の話になるが、慈慶の後は清慈が観玉寺を引き継いだ。
「ヒャンダン」
 輿の中から呼ぶと、すぐにヒャンダンが近づいてくる。
「何でしょう?」
「もう一度、外に出ても良いかしら。あと少しだけ、お寺をよく見て、この眼に灼きつけておきたいの」
「判りました」
 外から正面の扉が開かれ、明姫はヒャンダンの手を借りて地面に降り立った。
 今、明姫は感慨こめて振り返る。明姫の涙に濡れた瞳に、観玉寺の偉容が堂々と映っていた。春の空を背後に控え、鮮やかに塗られた山門が明姫の旅立ちをことほぐかのように明るい色合いを見せて立っていた。
 この御寺で過ごした二年という年月を自分はけして忘れないだろう。彼女はここで様々な体験をし、真実と愛を知ったのだから。
 この山門を、ここで出逢った人、過ごした一瞬一瞬のすべてを刻み込むように、明姫はしばらく山門を見上げたまま身じろぎもしなかった。
 ややあって、想いを振り切るかのように、踵を返す。
―もう自分の心に嘘はつかない。
 ヒャンダンがくれた言葉を胸にしっかり抱きしめ、明姫は再び輿の上の人となった。
「ご出立」
 護衛の責任者を任された黄内官が声を上げると、輿が動き出す。明姫は固い決意を示すかのように、膝の上で重ね合わせた手のひらに力をこめた。
 明姫が身動きした拍子に、チョゴリにつけた灰簾石(タンザナイト)のノリゲが揺れる。都を離れていた間も、ずっと肌身離さず身につけていた品、ユンの贈りものだ。
 私の居場所はあの方の側にしかない。その想いを強くしながら、明姫は明けの空の清々しい色に染まった石を撫でた。更にその手はまだ膨らみも目立たない腹部へと乗せられる。
 ここに、ユンと私の子どもがいる。今、この瞬間も萌える若葉のように目覚ましい勢いで成長している小さな生命を思うと、泣き出したいくらいの愛おしさが込み上げてくる。
 ユンの預言したように、都に帰ってからの日々は想像を絶するものになるに違いない。殊にそれでなくても明姫を眼の仇にしていた大妃は再び明姫を標的にして何かを仕掛けてくる可能性が大きい。
―お祖母さまも母上も私にとっては大切な方だ。
 仁誠王后の御陵で辛そうに言ったユンの気持ちを思えば、たとえ不可能だとしても、大妃には義理の母として後宮の最長老として敬意と親愛の情をもって尽くすつもりだ。
 私は負けない。明姫は自らに、腹の子に言い聞かせるように腹部を撫でながら呟く。
 春四月、満開の桜も散り、緑眩しい葉桜になる頃、観玉寺で二年という忍従の日々を過ごした美しい廃妃は晴れて王の待つ後宮へと戻っていった。
                (了)
   










山茶花【さざんか】
 花言葉―困難に打ち勝つ、ひたむきさ。桃、赤色は理性、謙遜。

桜 
 花言葉―優れた美人、純潔、精神美、淡泊。
しだれ桜は優美を表す。




















第四話
 
  永遠の少女 









 愛しき者

 深い漆黒のしじまに得も言われぬ伽耶琴(カヤグム)の音(ね)が響き渡る。果てのない闇に絡みつくようなその音色は深い艶を帯び、嫋々とした風情は知らず聞く者の心の奥底にまで滲み入るようだ。
 王がスと片手を上げると、たおやかな伽耶琴の音がふっと止んだ。
「このままそなたのつま弾く伽耶琴を聞いていたいのは山々だが、冬の夜は存外に短いからな」
 王―ユンは悪戯っぽい笑みをその秀麗な面に浮かべている。明姫(ミョンヒ)はつられるように微笑み、つい先刻まで弾(つまび)いていた伽耶琴を脇によける。部屋の片隅に控えていた女官は伽耶琴を受け取り静々と退出していった。
「こちらへおいでなさいませ」
 明姫は微笑はそのままに、王に手招きする。ユンは嬉しげに顔を綻ばせると、まるでご褒美を貰える子どものように瞳を輝かせた。
「やはり、そなたは私が何を望んでいるかを見抜く才があるようだ」
 ユンは明姫に近寄ると、横座りになった彼女の膝に頭を乗せて横たわった。
「やはり、そなたのここは私だけの特等席だ」
 そう断言するユンの口調があまりに子どもっぽかったため、明姫は思わずクスリと笑みを零す。
「あ、今、笑ったな」
「いいえ」
 明姫は笑いながら首を振った。
「王に対して無礼なヤツだ」
 ユンはどこか嬉しげに言った。
「礼儀をわきまえぬ無礼者にはお仕置きが必要だぞ、明姫」
 眼を閉じたユンの手がそろりと伸び、明姫の膝の上の手を握った。握られた手に力がこもったその瞬間、ユンが眼を見開いた。
「動いたのか?」
「はい、殿下(チヨナー)」
 明姫が微笑んで頷くのに、ユンはガバと飛び起きた。
「今、確かに子が動いたぞ」
 ユンの視線は、こんもりと膨らんだ明姫のお腹にひたと注がれていた。
「この子が動くのを確かめたのは、これが初めてだ」
 ユンは感に堪えたように呟き、明姫の腹部にそっと手を当てた。眼を軽く閉じ、しばらく腹の子の動きを改めて確かめているようである。
「随分と元気の良い子だな」
 ユンは破顔し、明姫を見た。
「最近はますますよく動くので、時には痛みを感じることもあります」
 明姫も笑って応じた。
「おい、そなたがあまりに腹の中で暴れては母上(オモニ)が痛いと仰せだ。元気なのは良いが、母上を困らせては駄目だぞ」
 大真面目な表情で言うユンに、明姫は微笑む。
「これだけ暴れん坊であれば、恐らくは王子(ワンジヤ)ではないかと思います」
「明姫」
 ユンは彼女の腹から手を放し、何とも形容のしがたい瞳で明姫を見つめた。
「私は生まれてくる子が男でも女でも良いのだ。ただ、健やかに生い立ってくれれば、他に望むことはない」