Parasite Resort 第一章
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――記憶領域。
脳の中に存在する記憶を司る部位、それは海馬とよばれる器官である。この器官が、海馬と呼ばれる所以は、その形状が、タツノオトシゴ=シーホース=海馬に似ているためである。このタツノオトシゴ様器官は、脳の奥下、その支えをグルリと挟みこむよう、2つ向かい合わせに存在している。もちろん貴方の頭の中にも。
――記憶。
記憶と一口に言っても様々な種類の記憶がある。記憶の分類法として最もポピュラーなのは、スクワイヤの記憶分類である。スクワイヤの分類法については、詳しく述べないが、その分類法を今回のケースに適用してみるに、問題となっている記憶は「エピソード記憶」と呼ばれるジャンルに当該すると思われる。つまり、玲子が電話で伝えた「いつもの店」が、どこであるのか。それは、過去のエピソードが記憶されている領域を覗き見ることで明らかになるというわけである。
(まるで深海のようだ)
と、旦は思った。
自らの意志のすべてを、記憶領域に集中させると、深海の様な景色が見えた。更に意識を集中させると、旦の意識は、肉体を伴ってそこに実体化をした。まったく人智を超えた謎現象であるそれは、ひとえにアザゼルの暴挙を止めんと、旦が強く念じたがために起こった奇跡……それとも、アザゼルという精神寄生体に精神を蝕まれた時点で、旦の意識に何らかの能力が備わったのであろうか……
記憶領域に実体化して、真っ先に訪れた感覚は、全方位から体を締め付けてくる莫大な圧力だった。全身の筋肉を張りつめさせていないと、圧潰してしまいそうになるほどの圧力。ここに存在しているという事自体が、どれほど不自然な事であるのか、それを諭すかのように、圧力は容赦なく負荷を掛けてきた。
圧力に負けぬよう、気を張りつめて、泳ぐに似たアクションで、記憶の海の中を進む。奥へ奥へと藻掻きつつある程度進んだ所で、微かな浮力を感じるようになった。それは奥へ行くほど、力を強め、旦の体を上層へと押し上げようとする。気を抜くと一瞬で浮上してしまいそうだ。息苦しさが無いことだけが幸い。旦はひたすら手足をバタつかせて、かすかな推進力をかき集め、前へ前へ……遥か先に見える赤い光、きっとアザゼルであろう光点に向けて、遮二無二に前進していく。
「……追ってきたのか?驚いたな」
くぐもった声が伝播してきた。アザゼルの声だ。
「絶対にお前を止めてみせる。お前に玲子を会わせる訳にはいかない!」
旦が、これほどまでに必死になるのには当然の理由があった。付き合ってまだ3週間……まだなのである玲子とは。
「初めての夜を、お前なんかに無茶苦茶にされてたまるかぁ!」
「初めて?……くくく、これはいい事を聞いた。興が乗ってきたぞ」
悪魔……堕天使とか寄生型情報生命体などではなく、アザゼルは、旦にとっては単に、あくまで悪魔でしかなかった。
恋人を守りたい一心、死に物狂いで旦はアザゼルを追う……しかし、その距離は離れるばかり、気がつけば辺のあちこちには、旦の記憶、それがぼんやりとした映像の靄となって現れていた。遥か前方彼方、赤い光のアザゼルは、きっと今頃、映像靄となって浮かんでいる記憶の中から玲子と通いつめている「いつもの店」の記憶を手当たり次第に探りもって、旦の記憶を漁っていることであろう。
「玲子……俺はお前を守れないかもしれない」
走馬灯のように――死に瀕しているわけでもないのに、走馬灯のようにというのもおかしな表現だが――旦の意識下では、楽しかった玲子とのこの三ヶ月の想い出が、映像となってグルングルとン目まぐるしく目まぐっていた。
「お前は間抜けか」
「はえ?」
いつの間にか目の前にアザゼルがいた。
「ほれ、見てみろ」
深海のような景色のあちこちに浮かぶ旦の記憶、店の看板を見上げて、玲子をエスコートしてドアをくぐっていく映像が、幾つものバリエーションで流れている。
「パスタアマーレ……ふむ、大学の近くのイタリアンレストランだな」
旦は、愕然とそれ――不覚にも自ら再生してしまった秘すべき記憶――を眺めた。
「では、グラーツィエ」
嫌味ったらしくイタリア語で謝意を述べ、ビッと人指中指日本揃えて頭上に振り上げ、アザゼルは弾丸マグロのように浮上していった。旦はというと、ボコボコと大粒の気泡を肺から溢れさせて、手足を弛緩させ、何かで引っ張りあげられていくように、ぐったりと上層へ浮上していった。
こうして、寄生体VS宿主のサイコバトルは、旦、痛恨のミスにより、あっけない幕切れを迎えた。
*****
記憶領域から弾き出されて次に、旦の意識が鮮明になった時……旦は玲子を伴って、ホテルにチェックインしていた。
件のパスタアマーレにて、どうやってアザゼルが、玲子を口説き落としたのか……旦はその一部始終を見ていたはずなのだが、まったく覚えていない。絶望すぎて朦朧としていたから。
自分の体を乗っ取った精神体アザゼルは、数千年の時を生きている存在と自称している……女を口説くテクニックにおいても、数千年のキャリアがあると思って間違いないだろう……ともすれば、いくら玲子のガードが固かろうと、口説き落とすのはそう難しくなかったはずだ。見ていなくともそれは分かる。しかし本題はそこではない。性技においても……数千年のキャリアがあると、アザゼルは言っていた。
(玲子……)
「女体の神秘」という慣用句があるが、数千年の研鑽を経れば、いかなる神秘であろうとも解明されてしまうのではなかろうか……旦にはそう思えてならない。無論……玲子の神秘性とて例外ではなく、今宵、アザゼルの手によって暴かれてしまうのではなかろうか……
「シャワー……先、浴びるね」
玲子の口からそんな台詞を聞くことになろうとは……旦は絶句した。正確に言うと絶句したのは旦の意識であって、今や宿主の旦をすっかり乗っ取って主従を逆転させてしまった寄生体アザゼルは「嗚呼、行っておいで」と、限りなく猫なで声で、囁いた。
シャワーを待つ間というのは、独特のドキドキ感があってなかなか乙なものである。願わくば旦は、それを素で体験したかったのだが、この状況ではそれも叶わぬこと、ドキドキ感は一切無く、あるのはハラハラと鳴る心配ばかり。
シャ
シャワーの音が途絶えた。
浴室から漏れ来る光、その光そのものであるかのように、バスタオルを巻いた玲子が、時間を止めて現れた。
作品名:Parasite Resort 第一章 作家名:或虎