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何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌【ラメント】~ Ⅳ

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 その頼もしい確信に満ちた言葉に、クヒャンは満足げに頷いた。

 どこかで鶯の鳴き声が聞こえたような気がして、明姫は緩慢に視線を動かした。いつまで待てども、鳴き声は聞こえない。やはり空耳だったのだろうと思い直し、また視線を足許の桜草に戻す。
 今日もまた、ここで随分と時間を費やしてしまった。これから部屋に戻って、また刺繍の続きをやらなければ。目下のところ、二人の暮らしは祖母の占いで得た礼金だけで賄われている。
 後宮を下がるに際し、明姫はかなりの慰労金を貰った。彼女はそれを当座の生活費に充てようとしたのに、祖母は笑いながら言った。
―それは、そなたがいずれ嫁ぐときの嫁入り支度に使いなさい。
 自分には生涯誰にも嫁ぐつもりなんてないのに、とは、とても言えなかった。結局、今までクヒャンの言葉に甘えてしまっている。
 それではいけないと四ヶ月ほど前からは明姫も刺繍を始めた。後宮にいたといっても、特に技術職の専門として働いていたわけではない。何か仕事をと思っても、なかなかこれといったものが見つからず悩んでいたところ、クヒャンに手慰みでやっていた刺繍を褒められ、これをやってみたらと勧められたのだ。
 早速、町の小間物屋に持っていって見せると、その場で買い取ってくれ、思っていた以上の礼金を弾んでくれた。以来、定期的に仕上げた刺繍をその店に持ち込み、幾ばくかの収入を得ている。
 今、刺しているのは桜草の図柄だ。明姫の刺繍は繊細で、まるで一幅の絵画を見ているようだと両班の婦人たちから大変評判が良いという。大きな作品を仕上げて持参すると、高値をつけても欲しいと買ってゆく人がいるのだと店の主人も歓んでいた。
 大作ばかりでは時間も手間もかかるので、今は手巾(ハンカチ)や髪飾り(リボン)に小さな刺繍を入れる作業をやっているところだ。丁度季節も合っているので、大好きな桜草をモチーフにして刺している。こういう小物は若い娘たちに人気があるとのことで、高値では売れないが、これはこれでまた売れ行きが良いらしい。
 需要に作るのが追いつかないほど好評なので、いつ行っても店の主人は愛想が良い。
「そんなに見つめていては、桜草に穴が空いてしまうよ?」
 唐突に背後で声がしたので、明姫はキャッと小さな悲鳴を上げて飛び上がった。
「あ、あなた」
 明姫は愕きのあまり、心臓が止まるのではないかと思った。一面に咲く桜草を背景に、ユンが立っている。そう、丁度一年前、宮殿の庭園で彼と初めて出逢ったときのように。
 あの時、彼は腕一杯の桜草を抱えていた。
「お祖母さまは、そなたがまるで愛しい恋人を見つめるように熱心に桜草ばかり見ているとおっしゃっていたが、なるほど、確かに、お祖母さまの言うとおりのようだ」
 ユンが笑いながら近づいてくる。
「幾ら相手が花だといっても、少し妬けるな。桜草が羨ましいよ」
「―これは夢なの?」
 明姫は呟いた。
 神さま、これは夢なのですか? 大好きな彼が今、私の眼の前にいる。
 明姫は思いきり頬をつねってみた。
「い、痛っ」
 ユンがとうとう声を上げて笑い出した。
「相変わらずだな、そなたは。全然変わってない。安心したよ」
「あなただって、ちっとも変わってないわ。相変わらず女タラシなのね。口ばかり上手いんだから」
 思わず頬を膨らませかけ、明姫はハッと我に返った。
「チ、殿下(チヨナー)」
 慌てて頭を下げた。
「申し訳ございません。つい癖になってしまっているのもので、失礼を申し上げました」
 ユンが淋しげな表情になった。
「止してくれ。明姫にそんな風に言われると、逆に哀しくなる。私は今までどおりのそなたが良いんだ。私の前では、私のよく知っている明姫のままでいてくれないか」
「そうおっしゃいましても、あなたさまは国王殿下でおわします。私ごときが気安く対等にお話しできる方ではございません」
 下手な役者が芝居の脚本を棒読みするような科白に、ユンが眉根を寄せた。
「明姫、先ほどから、そなたは私の眼を見ていない」
 ユンは明姫に更に近づくと、彼女を引き寄せ力一杯抱きしめた。
「さあ、私の眼を見てごらん」
 顔を覗き込んで言われ、明姫はうつむいたまま嫌々するように首を振った。
「困らせないで下さい。私が宮殿を去ったのは、色々と考えた上でのことだったのです。私がいなくなることで、殿下や大妃さまもお心安らかにお暮らしになれるだろうと思いましたし、その他にも―」
 ユンは明姫に最後まで言わせなかった。
「誰が心安らかに暮らせるって? そなたが私の傍からいなくなれば、私が心安らかになるとでも? そなたは本当に心から、そう思ったのか、明姫」
 ユンの切なげな声が耳を打つ。
「そんなのは大間違いだ。そなたが突然宮殿から姿を消して、私がどれだけ落胆したか、そなたには判らないだろう。まるで別れを告げるように、そなたの部屋には私が贈った服が置き去りにされていた。そなたは、とうとう私の心を受け取ってはくれなかった、私の真心を置いたまま、宮殿を去っていったのだと思うと、絶望と哀しみで胸が張り裂けそうだったんだぞ」
 二人の傍を春の風が通り過ぎた。気まぐれな風は一面の桜草を揺らす。
「そこまで自分は明姫に嫌われてしまったのかと随分と落ち込んだ」
 ユンの呟きが春の風に運ばれて空へと消えていった。
「嫌いになったわけではありません」
 明姫は消え入るような声で言った。
「じゃあ、どうして? 何故、私に何も言わないで出ていった?」
「私がお側にいては、殿下のご将来の妨げになるからです」
「そんなことを勝手に決めるな! 私は言ったはずだ。ただ一人の女を一生涯かけて守り愛し抜くと」
「―どうか、もうお帰りください。そして、二度とここにはおいでにならないで下さい」
 心にもないことを言わねばならない自分が哀しい。本当はユンが逢いにきてくれて、飛び上がりたいほど嬉しいのに。つれない言葉を次々と繰り出しながら、心は血の涙を流していた。
「それは本心からの言葉なのか?」
 明姫が小さく頷いた。
 と、いきなり膝裏を掬われ、明姫は愕いてユンにしがみついた。
「それでも良い。仮にそなたが私を嫌いになってしまっていたのだとしても、私はそなたを宮殿に連れて帰る。たとえ、強引にそなたを抱くことになっても、私は今度は引き下がらないよ、明姫」
「殿下―、お許しください」
 明姫はユンに抱きかかえられたまま、眼を伏せた。眼を開ければ、真実を―彼をまだ愛しているという気持ちを見抜かれそうで怖かった。
「それとも」
 ユンの声が吐息のようにか細くなり、艶を帯びた。
「それとも、お祖母さまにお願いして、この屋敷のどこかの部屋を貸していただこうか? 今、ここですぐにそなたを私のものにしてしまえば、そなたはもう抗いようもないんだ。既に明姫には王命が出ている。宮殿を出てくる前、私は承旨を呼んで新しい側室を迎えることを内外に公表するよう指示を出してきた。そなたはもう、淑媛に任ぜられた、れっきとした王の妃なんだ」
「―!」
 自分が淑媛、王の側室? 俄には信じられないことだが、王であるユン自身が言うのなら間違いはないのかもしれない。