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何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌【ラメント】~ Ⅳ

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 短い間だったけれど、ユンとは色んな想い出を作ることができた。彼と共有した時間は明姫にとっては生涯の宝となるに違いない。その想い出たちの中では、彼は国王などではなく、ただの集賢殿の学者にすぎなかった。
 そこで、明姫は初めて、自分がユンとの恋を既に過去形として認識していることに気づいた。もう、彼との恋は自分の中でも本当に終わったのかもしれない。
 未練がましくも、また涙が溢れそうになり、明姫は慌てて瞬きで涙を散らした。
 その時、扉の向こうから遠慮がちに声がかけられた。急いで開けると、見慣れた朋輩の顔がある。明姫よりは二つ年上だが、入宮の時期もほぼ同じで見習い時代から仲の良かった娘だ。あまり社交家でない明姫にとっては、数少ない親友と呼んで良い。
「提調尚宮さま(チェジョサングンマーマ)がお呼びよ」
 明姫は眼を瞠った。提調尚宮は後宮女官長、つまり後宮の取締役である。後宮の女たち、つまり内命婦(ネミョンプ)を統括するのは後宮の長である王妃だが、それは後宮内のことを決める決定権を持つというだけのもので、実務面での運営を行っているのは提調尚宮である。
 後宮で最も高位の提調尚宮がいきなり下っ端女官に用があるといえば、大方は何かの叱責を受けるとしか考えられない。咄嗟に思ったのは中殿に差し上げる牡丹の花を落としてしまった出来事への叱責ではないかということだった。
 が、あの一件については国王ユンが自ら大妃と直談判に及んでまで〝咎めなし〟と決まっている。国王が決定した事項は何人たりとも覆すことは許されないのだ。
 他に考え得る失敗というのは特に思い当たらず、一体何事かと内心は薄氷を踏む想いで女官長の部屋に行った。
「提調尚宮さま。お呼びでしょうか」
 外から声をかけると、〝入りなさい〟とすぐに返事があった。扉を静かに開け中に入ると、明姫は深々と腰を折る。
 提調尚宮は後宮生活四十年の大ベテランであり、先輩だ。キャリアの尚宮となった人の中では異例の〝お手つき〟尚宮だとひそかに噂されている。後宮においての尚宮という呼称には実は、ふたとおりある。
 まず、崔尚宮や大妃殿の朴尚宮のような職歴を積み上げてきた、たたき上げの尚宮である。これはキャリア女官といえる。若い女官たちを監督・統率し、女官長を補助して後宮の実務や運営が滞りなく運ぶように働く。
 後宮には王や王妃の食事を担当する水刺房(スラッカン)、洗濯を担当する洗濯房、後宮内のすべての衣服の仕立て、補修を担当する繍房(スバン)というように、担当部署が細かく分かれている。大殿と呼ばれる王宮殿、中宮殿と呼ばれる王妃殿、また大妃殿にもそれぞれ尚宮がいるが、細かく分けられた部署にもそれぞれ専任の尚宮がいた。
 これらの尚宮もむろん、キャリアである。
 その一方、〝承恩尚宮〟、〝特別尚宮〟と呼ばれる尚宮が存在した。この呼称は実のところ、王の寵愛を受けた女官に対しての敬称であり、一般の尚宮とはまったく違う。尚宮と呼ばれていても、王の側室扱いを受ける。独立した住まいを賜り、尚宮のお仕着せではなく、きらびやかなチマチョゴリの着用も許される。
 もちろん、実際に仕事をすることはない。このように、キャリアの尚宮と王の寵愛を受ける尚宮とはまったく違う
 ところが、今の女官長は女官時代に王の寵愛を受けたことがあるという専らの噂だ。もっとも、その出来事は三代前の国王の御世のことであるらしい。当時のことを知る者は後宮にはいないから、それが真実なのかどうかは定かではない。三代前の王は先々代王の兄であり、在位わずか二年で世を去った薄幸な人である。
 常識的に考えれば、お手つきの尚宮がキャリア尚宮に転向することはない。しかしながら、女官長のどこか掴みどころのない不思議な魅力は、確かにその昔、そのようなロマンスもあったのではと思わせる。崔尚宮のように厳しいわけでもなく、いつもおっとりと微笑んでいて、声を荒げて怒ることもない。
 けして美人とはいえないが、女性らしい魅力を備えた人なのだ。その分、滅多に怒らない女官長を怒らせたら、取り返しが付かない―とまで囁かれている。
 一礼した明姫はおずおずと女官長の前に座った。一体、何の失敗で叱責を受けるのだろうかと気が気ではない。
 座椅子に座っていた女官長は明姫を認めると、微笑んだ。
「そのように固くならずともよろしい。別にそなたを咎めようと思っているわけではない」
 最初にそう言われたので、随分と気が軽くなった。それがあからさまに顔に出たのか、女官長はにっこりと笑った。
「そなたが金明姫か?」
「はい」
 明姫は畏まって応えた。むろん、後宮内でも最高位の尚宮と直接言葉を交わすのは初めてである。
 女官長が小さな息を吐いた。ふくよかな顔から笑顔が消えている。これはどうやら、あまり良い話ではないらしいと再び身体中に緊張が漲った。
「今日はそなたに申し聞かせたいことがあって呼んだ」
 女官長はまた溜息をつき、どうしても片付けたくない仕事を急いで済ませるように早口で言った。
「国王さまとそなたの拘わりは既に私も存じておる」
「提調尚宮さま」
 明姫が言いかけるのに、女官長は首を振った。
「まあ、人の話は最後まで黙って聞け」
「―申し訳ありません」
 明姫はうなだれた。
 そんな明姫を見つめる女官長の眼にはどこか憐憫の情が浮かんでいるが、明姫には判らない。
「こたびのことで、大妃さまは烈火のごとくお怒りだ。あのとおり、ご気性の烈しいお方ゆえ、正直、そなたの身に危険が及ばぬとも限らぬ」
 ここで女官長の声が一段と潜められた。
「そなたが入宮するはるか昔の出来事ではあるが、そなたも孔淑媛の話は知っておろう。私はもう二度と、後宮であのような悲劇は繰り返したくない。また後宮を束ねる者として、大妃さまと国王殿下母子の御仲がこれ以上、悪化するのを見過ごすわけにもゆかない。その原因たるそなたをこのまま後宮にいさせるわけにはゆかないのだ。酷いことを言うようだが、ここは聞き分けて身を退いてくれ」
「私―」
 何か言おうとすると、涙がこぼれ落ちそうになる。明姫が何も言えないでいると、女官長は優しい声音で続けた。
「殿御をお慕いする女の気持ちに、身分は関係ない。私はそなたが欲得や計算づくで殿下に近づいたのではないと判っている。だが、後宮では、そのような見方をする者の方が少なかろう。私もかつてはこの上なく高貴なるお方を心から恋い慕い、その恩寵を何度かは賜った身だ。そなたがお若く凛々しい国王さまをお慕いする恋心はよく判る。女官長とはいえ、その上で愛し合っている若い人たちを引き離さなければならないのは辛いことだ」
「―」
 明姫は絶句し、唇を噛みしめた。堪え切れなかった涙がひと雫ポトリと床に落ちた。
「一つだけお訊ねしてもよろしいでしょうか?」
「何なりと」
「提調尚宮さまは何故、心からお慕いした方とご一緒に歩く道を選ばれなかったのですか?」
 国王の寵を受けたのなら、側室として生きる道もあったはずだし、むしろ大抵の女はその人生を選んだだろう。女官長が先々代の国王に愛されたというのは事実だったのだ。
 女官長の丸い顔にゆったりとした笑みがひろがる。