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何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌【ラメント】~ Ⅳ

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 大妃はいつもの切り札を出した。どんなに言うことをきかないときでも、この科白を繰り出せば、王は渋々ながらでも母に従ってきたのだ。それは王が幼いときから変わらない。
 だが、ユンは平然とその言葉を交わした。
「母上、好きな女を守るのに、国王であるかどうかなど関係ありません。私は今、王としてではなく、一人の男として母上にお願いしているのです。そして、母上がどうしても私の願いを聞き入れて下さらぬというのなら、私は私自身の意思で生涯の伴侶を選ぶまでです。母上が孔淑媛のときのように明姫をまた追いつめるというのなら、私は全力で明姫を守る。あの時、私はあまりにも幼く、孔淑媛を守れなかった。だが、今は違う」
「なっ」
 大妃はいささか派手すぎる紅を塗った唇を戦慄かせた。あまりの衝撃に言葉も出ないようだ。
「それでは、これにて失礼いたします」 
 息子は最早、母の方を見ようともせずに部屋を出ていった。
 大妃の脳裏にある一つの光景が浮かび上がる。記憶が巻き戻されてゆく。
 そう、ずっと以前にも、たった今とまったく同じ光景を見たのではなかったか。
 十四年前のあの日、珍しく良人である国王が大妃の許を訪れた。丁度、当時は世子だったユンもその場にいた。国王はしばらく幼い息子の相手をしてやり、滅多にないことに中宮殿にはユンの笑い声が響き渡った。
 そこに女官が血相変えてやってきて、孔淑媛の自害を伝えた。あのときの良人の冷たい視線を彼女は生涯忘れないだろう。まるで汚らわしく厭わしいものでも見るかのような冷え冷えとしたまざしが全身に突き刺さるようだった。
 国王は大妃を余計に刺激してはまずいと知らないふりをしていたのだが、実は大妃が孔淑媛を中宮殿に呼びつけて鞭打ちの刑を与えたことを知っていたのだ。更に、それが原因で流産したことも。
 嫉妬深く気位の高い妻には愛想が尽きていたが、捨て置けばまた孔淑媛や他の寵妃たちに対して何をしでかすか判らない。だから、その日は妻の機嫌取りもあって中宮殿を訪れたのだ。
―殿下、お願いです。行かないで。
 中殿としての誇りも何もかもかなぐり棄て、去ろうとする国王の脚にしがみついたのに、王は彼女を振り払うようにして足音も荒く去っていった。あの後、孔淑媛の許に駆けつけたのは判っている。
 足蹴にされたも同然の彼女は茫然自失の体で良人を見送るしかなかった。傍では幼かった世子―ユンが声を上げて泣きじゃくっていた。だが、息子は実の母が父から足蹴にされて泣いたわけではない。姉のように慕っていた孔淑媛が亡くなったことを哀しんでいたのだ。 
 何故なのだ? 自分のどこがいけなかったのだろう。自分はただ良人を愛していただけなのに。良人に振り向いて欲しくて、他の側室たちのように優しく微笑みかけられたかったのだ。
 良人が孔淑媛ばかりを寝所に召しているのが堪らなかった。良人の夜の訪れを待ちながら、幾夜も独り寝の寝床で涙を流したことか。
 今し方、彼女の許を去っていった息子の瞳は、あのときの良人のまなざしとそっくりだ。凍てついた氷のように彼女の心を刺し貫いた。
 皆、私の許から去ってゆく。良人も息子も、誰もが私を一人残して、他の女の許に行くのだ。一度も私に逆らったことのない子が、親孝行で優しい殿下が生まれてめて私に背いた!
 許さぬ。けして息子の心を奪った女を許しはしない。大妃の心に新たな憎しみの焔が燃え上がった。
  
 同じ日の夕刻。
 明姫は自室で書見をしていた。正直に言うと、彼女は難しい書物は苦手である。漢字がズラリと並んだ書物を見ていると、ものの四半刻と経たない中に頭が痛くなってくる。
 ゆえに、ユンが集賢殿の学者だと聞いた時、素直に感心も尊敬もしたものだった。実際には彼は学者どころか、この国の王であったわけだったのだけれど。
 しかし、国王直宗は確かに学問に秀でた王だといわれている。ユンが国王だと知る前にも、直宗が武芸に秀でているという話はあまり聞いたことがない。その分、学問については学者はだしであり、それこそ本物の集賢殿の学者と問答しても引けを取ることはなく、かえってベテランの学者たちが舌を巻くほど学識が深いという話だ。
 その逸話を裏付けるように、町の片隅の彼が〝隠れ家〟と称する一軒家には、たくさんの本が置かれていた。小さな小卓を置けば、後はひと二人がやっと座れるほどの空間に、いかにも難しげな書物が山積みされていたのを思い出す。恐らく、根っからの本好きなのだろう。
 そういえばと、明姫は初めて彼と出逢ったときのことを思い出していた。漢陽の町中で両班の極道息子に絡まれていたところ、ユンが颯爽と現れて助けてくれようとしたのだ。
 ところが、そこまでは良かったものの、 ユンはまったくの見かけ倒しで―もっとも、見かけだって、どう見ても武芸達者なようには見えず、むしろ頼りなかったが―、あの場で極道息子とやり合う羽目にならなくて良かったと思わずはいられない。
 なのに、彼はあろうことか最初、明姫に自分は武官だと名乗ったのだ! 明姫が武官には見えないと言うと、今度は慌てて集賢殿の学者だと言い換えた。
 その方がまだしも信じられそうなユンの雰囲気であったが、それでも、明姫は集賢殿の学者だという話も実はあまり信用していなかった。どうせ適当なことを口にしているのだろうとさして本気にしていなかったのだ。が、意外にもユンの言葉は本当だった。
 だから、蒼色の官服を纏った彼と朝廷で出逢ったときは、かなり愕いた。本当に官吏だったのだと漸く信じられる気になった。ところが、ユンは中級官吏ではなく、この国で唯一無二、最も尊い存在だとされる朝鮮国王であった。
 今でも、まるで夢を見ているような気分だ。明姫が好んでよく読む婦女子向けの小説(読み物)などには、よくそういったどんでん返しが仕組まれた話が描かれている。しかし、小説でもあるまいに、現実にこんなことがあり得るとは信じがたい話だ。
 小説は過激な性的描写や挿絵が人々の風紀を乱すとして、公には禁止されている。が、人々はこぞって買い求め、陰でこっそりと読みふけっていた。この後宮でも、女官たちの間ではひそかに小説が流行っている。人気のある小説は順番待ちではないと読めない有様だ。
 まあ、ユン―国王その人がどうやらひそかに小説を読んでいるようだから、幾ら朝廷が厳しく詮議して取り締まっても、小説を読む人がいなくなることはないだろう。
 難しげな書物はできればご免蒙りたいが、こういった気楽に楽しめる物語ならば大歓迎である。
 それにしても、小説を禁止しているはずの当の国王がそれを読んでいるとは。明姫は初めて逢ったときの彼を思い出して、思わず頬を緩めた。どこから見ても、大切に育てられた坊っちゃん然としたユンが大真面目に武官だと自己紹介したときは、笑い出したいほど愕いたが。
 まるで武芸とは縁がなさそうな彼と武官という肩書きは誰が見ても、結びつかなかったろう。
 彼と出逢ったあの日から、まだひと月も経っていない。なのに、今はあの出来事がもう何年も前のことのように懐かしく思えた。