小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

何でも、あなたに恋をする~後宮悲歌【ラメント】Ⅳ

INDEX|8ページ/9ページ|

次のページ前のページ
 

 明姫の記憶は彼と過ごした一瞬一瞬へと還ってゆく。
 彼はこうも言った。
―そなた一人を一生涯かけて守り、愛し抜くよ。
「あの言葉は、全部嘘だったのね」
 思い出すと、不覚にもまた涙が湧いてくる。
「ユンには奥さんがいたのに」
 彼が国王だと判った今、本当は敬語で接するべきなのだろうけれど、衝撃が大きすぎて行動が現実についてゆけないでいる。
「あんなに綺麗な奥さんがいるのに、私をお嫁さんにするだとか、私一人を愛し抜くだとか、できもしないことを並べ立てて」
「嘘じゃない!」
 ユンの声がふいに大きくなった。
「嘘なんか言ってない。私はあの時、本気で言ったし、今でも、あのときの気持ちと変わらない。中殿とはもうどんなに努力しても解り合えないんだ。だけど、中殿と別れることはできない。彼女は朝廷の大物といわれる領議政の娘だし、私には従姉だ。それに、私が即位した十四のときから夫婦として連れ添ってきた糟糠の妻なんだよ。たとえ形だけの心は離れた夫婦であっても、中殿を無下にはできない」
 その言葉は明姫の心を鋭く刺し貫いた。
―私が即位した十四のときから夫婦として連れ添ってきた糟糠の妻なんだよ。
 心が通っていないなどと言いながら、王妃を糟糠の妻と呼び、無下にはできないと言う彼が恨めしく憎かった。
「私が心にただ一人の女と決めたのは、そなただけなんだ。それだけは信じてくれ、明姫」
「勝手なことばかり言わないで。まだ、そんなことを言うの? 私だって、あなたに言ったはずよ。大勢の女の人と、たった一人の男をめぐって争うのも愛を分け合うのも私はいやなの」
「だが、私は国王だ。たとえ心がそなた一人を求めたとしても、心のままには生きられない。私だって、それが許される立場なら、とっくにそうしていたよ。今だって、王の位なぞ誰でも欲しければ、くれてやっても良い。名もないただの男として、そなたを妻として二人だけ市井でひっそりと生きてゆきたいと願っている」
 ユンが振り絞るように言った。
「私にはできないんだ。私が王位を投げ出せば、誰が王となる? 王族の男子を立てて新しい王とすることは容易いだろう。でも、それをすれば、私はこの国と民を自ら棄てることになる。たとえ不甲斐ない王であっても、ひとたび玉座につけば、国と民の父なんだ。私を信じている民を裏切ることは私にはできない」
 生まれながらに王となるべく生まれたユン、彼は若くしてその肩に重すぎるものを背負った。まだ遊びたい盛りの歳で王となり、この国の未来をその細い肩に背負わされたのだ。
 それでも、ユンはその運命から逃れようとはしない。強く、どこまでも前向きに運命を受け容れて自らに課せられた責任を全力で果たそうとしている。
 だけど、そんな彼の生き方を理解はできても、私は受け容れられない。私は王妃になるべく育てられたわけではないのだから。
 明姫はユンの腕を振りほどいた。
「さようなら」
 ユンの顔を見ないで別離の言葉を告げた。大好きな彼の顔を見たら、また心が揺れて〝さよなら〟が言えなくなる。
「―それが明姫の応えなのか? 私たちは本当にこれでもう最後なのか」
 彼の声がかすかに震えていた。もしかしたら、彼も泣いているのかもしれなかった。ユンの綺麗な顔が哀しげに歪んだのが、この時、うつむいた明姫には見えるような気がした。
 明姫はそのままユンの顔をついに見ることなく、走り去った。

 自室に戻った明姫は床に突っ伏して泣くだけ泣いた。これだけ泣いてもまだ涙が出るのが不思議なほど泣いた。あまり泣いてばかりいると、身体中の水分がなくなって、干からびてしまうのかもしれないなどと、馬鹿なことを考えたりしながら。
 いっそのこと、それも良いかもしれないと思う。ユンがいないこの世で生きていても、愉しくも何ともない。だからといって、いざとなると死ぬ勇気もないのだから、つくづく自分は情けない人間なのだろう。
 どれだけの時間が経ったのか。いつしか泣きながら眠っていたようで、目覚めたときは既に黄昏時だった。障子窓を通じて蜜色の陽光が床に差し込んでいる。窓に填った格子模様がそっくりそのまま床に模様を描いていた。
 訳もなくその床にできた格子模様を指でなぞっていると、廊下の向こう側から秘めやかな声が聞こえた。
「明姫、起きているのか?」
 崔尚宮の声である。明姫は慌てて居住まいを正した。乱れた髪を手でささっと直す。
「はい」
 応えると、ほどなく扉が開き崔尚宮が入ってきた。
「一刻ほど前に覗いたら、よく眠っているようだったから」
 また出直してきたということだろう。
「申し訳ありません」
 慇懃に頭を下げると、崔尚宮が溜息をついた。
「そなた、また騒動を起こしたようだな」
「―」
 応える言葉もなくうなだれていると、崔尚宮が笑った。
「そのことについては、心配は要らない。国王殿下おん直々のお声がかりで、こたびの件は不問に付されることになった。しかしながら、あれだけの衆目の手前、そなたをお咎めなしとすれば、中殿さまのご威光にも拘わることになるゆえ、そなたは自室で三日間の謹慎ということにあいなる。まあ、骨休めと思うて、この際ゆるりと致せば良い」
 つまりは、事実上、お咎めなしということだ。今更ながらに、ユンの国王という地位と立場の強さを思い知らされた瞬間だった。
 それにしても、あれほど怒り狂っていた大妃がよくも納得したものだ。たとえ国王といえども、なかなか一筋縄ではいかない大妃である。
 明姫の想いが伝わったのか、崔尚宮が微笑んだ。
「このたびばかりは、国王殿下が引き下がられなかったのだ。大妃さまは相変わらずご立腹のご様子だが、母君さまとはいえ、殿下がお決めになったことなら、大妃さまでも覆せぬゆえな。恐らく殿下が大妃さまにこうまであからさまに逆らったのは初めてのことと、朝廷でも後宮でも大変な噂になっているそうな」
「そう、なのですか」
 ユンがそこまでして―大妃と対立してまで庇ってくれたのは嬉しい。だが、それで現実が変わるわけではないのだ。
 明姫がうつむいていると、崔尚宮が側に寄り、そっと抱き寄せられた。
「可哀想な小姫」
 身体をすっぽりと包み込む温もりに、また涙が溢れる。
「泣きたければ、好きなだけ泣きなさい」 
 こういうときは、いつもは厳しい上司が本当は血の繋がった伯母なのだと実感できる。六歳で死に別れた実の母はもう顔さえ思い出せないほど、記憶は朧になった。崔尚宮こそが、明姫にとっては母であった。
 後宮に上がったばかりの頃、崔尚宮は内緒で明姫を自室に呼んで一緒に眠った。夜半に例のあの夢―紅蓮の焔に飲み込まれる夢を見て泣いて起きた時、伯母はいつも幼い明姫を腕に抱いて髪を撫でてくれた。 
 そう、丁度今のように、抱きしめ、髪を撫でてくれたのだ。
―小姫。怖がらなくて良いのですよ。
 優しく頬ずりしてくれた記憶は今も鮮明に残っている。
 そういえば、ユンは言っていた。
―大勢の家庭教師や高価な玩具よりも、母の温もりが欲しかった。ただ抱きしめて頬ずりをして欲しかった。