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何でも、あなたに恋をする~後宮悲歌【ラメント】Ⅳ

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 可哀想に、明姫は泣いていた。あの涙は中殿の花を折ってしまったという失態によるものではない。信じていた恋人に裏切られた烈しい衝撃によるものだ。
 自分は何という酷い仕打ちを彼女にしたのだろう。あんなに一途に自分を信じようとし、精一杯の優しさと誠実さで応えようとしてくれた彼女の真心を土足で踏みにじったのだ。
―明姫。
 ユンは立ち上がり、心で最愛の女の名を呼ぶと、脇目もふらずに走り出した。
 その場に居合わせた誰もが眼を疑った。血相を変えてその場からいなくなった国王をあたかも信じられないものでも見るような顔で見送っていた。
 殊に、そのときの大妃の度肝を抜かれたような表情は見物だった。更に、美しい王妃の花のかんばせが一瞬、鬼のように様変わりしたことも。

 明姫は泣きながら走った。どこをどう走ったのか判らない。とにかく今は、できるだけ彼から離れたかった。
 今でもまだ信じられない。蒼い官服を着たユンは見慣れているけれど、王衣を纏ったユンなんて、想像したこともなかった。国王と世子のみに許される龍袍(りゆうほう)に身を包み、威風堂々としていたユンはいつもにもまして凛々しく格好良かった。
 国王殿下はすごぶるつきの美男。後宮では王の顔を見たことのない下っ端女官まで皆、そう囁いていたし信じていた。
 だが、どうやら、その噂は真実だったらしい。
 ユンはどんな男よりも綺麗で男ぶりも良いもの。そこまで考えて、明姫は自分で自分を嘲笑った。何て愚かな女! ここまで徹底的に騙され、裏切られたのに、自分はまだ彼をそんな風に思えるのか。
 もう、おしまいだ。すべては終わったのだ。明姫は涙を流しながら、ユンを恨むまいと思った。自分が愛したイ・ユンと国王殿下はまったくの別人だったのだ。
 ユンは私に最高の素敵な想い出と時間をくれた。私の恋人だった男は今日を限りに消えて、いなくなったのだ。私が今日、見たあの美しい国王さまはユンではない。
 そう思うことで、何とか今の絶望的な状況を乗り切るしかなかった。
 泣いちゃ駄目。泣いたって、現実は何も変わらない。ユンが見せてくれたのは束の間の美しい幻であり夢だった。夢はいつか必ず醒めるときがくる。
 夢が終われば、待っているのは現実。現実から眼を背けるのは不可能なのだし、これからユンのいない現実を受け容れて前に向いて進むしかない。
 元々、明姫は後宮で一生を終えるつもりであった。このまま真面目に勤務していれば、いつかは自分でも尚宮になれるかもしれない。今はせめて女官としての出世でも夢見て自分を奮い立たせるしかなさそうだ。
 そう思う傍ら、また別の想いが湧き上がってくる。そんなのは違う。私の夢見たのは女官としての職歴(キヤリア)を積むことなんかじゃない。いつもユンの隣にいて、彼の笑顔を見てその夢を応援することだった。
 馬鹿な私。これほどまでに酷い現実を突きつけられてもなお、どこかでユンを諦め切れない自分を明姫は憐れに思った。
 こんなに好きなのに。大好きなのに。私はユンとは一緒に歩けない。彼の隣にいるのは私ではない。綺麗でこの上なく高貴な王妃さまなのだ。
 刹那、先刻見たばかりのユンの笑顔がありありと甦った。王妃に優しく微笑みかける国王の笑顔はまばゆいほどだった。身体が殆ど触れ合わんばかりの状態で和やかに談笑する国王夫妻の姿を遠目に見て、憧れと羨望を抱いたのだ。
 自分も最愛の男とあんな風に寄り添い合い、生きてゆきたいと。
 だが、それはとんだ勘違いだった。美しい王妃に優しい笑みを向けていた国王こそが彼女が恋人と信じていた男であったとは。
 王妃に笑いかけていたユンの笑顔を思い出す度に、心が引き裂かれ血の涙を流すようだ。でも、自分には嫉妬する資格すらない。何故なら、ユンと自分は住む世界が違いすぎるからだ。
 生まれたときから将来は王妃となるべく大切に育てられお妃教育を受けてきた令嬢と、既に実家は絶えたに久しい後ろ盾もない自分。比べること自体がおこがましい。そんな自分が王妃さまに嫉妬するなんて、とんだお笑いぐさではないか。
 自己憐憫に浸るなんて、おかしいと思いながらも、明姫は泣くのを止められない。自分があまりにも惨めで憐れだった。
 とうとう一歩も走れないというまで走って、明姫はその場にくずおれた。チマが汚れるのにも頓着せず、ぺたんと座り両手で顔を覆って泣いた。
「明姫」
 ふいに背後から名を呼ばれた。大好きなユンの声。でも、振り向いてなんかあげない。
「明姫」
 再び呼ばれ、肩を掴まれた。
「放して」
 明姫は泣きながら叫んだ。それでも、ユンは泣きじゃくる明姫を抱きしめてくる。
「済まぬ、許してくれ」
 逞しい腕の中に明姫を閉じ込め、ユンは言った。王衣を纏っている彼の姿を見ていなければ、まだ彼が国王だという現実を信じられないだろう。こうして抱きしめられ彼の声だけを聞いていたら、先刻見たばかりの彼の姿は幻だったのだと、悪い夢を見たのだと思ってしまいそうになる。
「何で騙したの?」
 今更、彼を責めたところでどうにもならないと知りながら、口にせずにはいられなかった。
「騙すつもりはなかった」
 ユンが苦渋に満ちた声で言った。
「頼むから、泣き止んでくれ。そなたが泣くと、私はどうして良いか判らない」
 ユンの途方に暮れた声に、明姫はおずおずと顔を上げた。明姫の泣き濡れた瞳に、ユンが胸をつかれたように身じろぎした。痛みに堪えるような表情でこちらを見ている。
 大好きな男はやはり、蒼の官服ではなく、紅い龍袍を着ていた。五本指を持つ龍が舞う王衣を身につけられるのは世子ではなく、王のみである。
 今の彼の姿が何よりユンは集賢殿の学者などではなく国王なのだと知らしめていた。
「そなたには何と詫びて良いか判らない」
 ユンがポツリと言った。
「そなたを守る、泣かせないとお祖母さまに約束したのに、こんなに哀しませてしまった」
 その言葉に、明姫は微笑した。ユンが初めて実家を訪れたときのことを思い出したのだ。
 この国の王が落ちぶれた両班の老婦人に自ら拝礼し、ひれ伏したのだ。
 お祖母さまは何も知らないから―。もし、後でユンが国王さまだったと知ったら、びっくりして心臓麻痺を起こすかもしれないわね。
 こんなときなのに、笑いが込み上げてしまう。
 だが、あの時既に祖母クヒャンはユンの正体をはっきりとではなくても、おおよそは察していた。そのことを明姫は知らない。
 あの日、クヒャンが一人になって呟いた科白の続きは
―それから、あの鳳凰は黎明の空を飛んでいた。私が見たのは、翼をひろげて明けの空を軽やかに舞う姿だったねぇ。
 明姫の祖母がユンの上に見たのは、夜明け前の橙と群青が入り混じった大空を美しい鳳凰が悠々と旋回する姿だったのだ。
―これから明けようとする空を飛ぶ鳳凰は聖君ソングン(名君、傑出した偉大なる国王)が世に出現する前触れ、即ち瑞兆だもの。やはり、あのお方は―。
 飲み込んだ言葉の続きは、ついに再び紡がれることはなく、占い師の血を色濃く引く祖母は孫娘のゆく末に限りない栄光と悲哀を見たのだ。
 クヒャンの見たものは後に明姫の辿る運命と哀しいほどに一致するのだ。