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何でも、あなたに恋をする~後宮悲歌【ラメント】Ⅳ

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 詰問する大妃の側で、王妃は蒼白になっている。その時、一触即発の張りつめた空気を場違いな声が震わせた。
「何もしていないというのに、花冠ごと落ちるとは、また何と不吉な」
 誰もが非常識というよりは、愚かすぎる発言者の方を見た。
 ウォッホン。領議政ペク・ヨンスが不自然な咳払いをし、まだ何か言いたげなユン昭儀は慌てて口をつぐんだ。
「早く理由を申せ」
 ユン昭儀の馬鹿げた発言が大妃の怒りを余計に煽ったのは言うまでもない。しかも、その怒りはユン昭儀ではなく明姫に向けられるのは必然であった。
「お前は口がきけぬのか! ええい、腹立たしい小娘だ。この私に問われて、言葉も発さぬとは」
 大妃が喚いた。
「誰か、鞭を持って参れ。この不心得者をこの場で見せしめに鞭打ってやろう。朴尚宮、鞭だ、鞭を持ってくるのだ」
 怒りに任せて喚き散らす大妃、狼狽える朴尚宮、つい今し方まで和やかだった宴の席は、さながら修羅場と化した感があった。
「朴尚宮、何を愚図愚図しておる」
 烈火のごとく怒った大妃が一喝したのと、凜とした声が響き渡ったのはほぼ時を同じくしていた。
「母上、しばしお待ち下さいませ」
 怒り狂った大妃が唖然として横を見た。
 王が穏やかな声音で言った。若い王は怒りまくる母とは対照的に、この緊迫しきった場におよそ似つかわしくない落ち着いた様子を見せている。
「中殿に献上する花は確かに大切なものではありますが、たかが花一つで、そこまで大騒ぎするほどのこともないのでは? その者の落ち度は落ち度として、処罰は直属の尚宮に任せてはいかがでしょう。折角の花見の宴を些細なことで台無しにしては勿体ないと私は思うのですが」
 王は大妃を宥めるように言い、平伏する明姫に向かって続けた。
「盛りのときに花が落ちることも珍しくはない。偶然の出来事をそなた一人のせいにするのも不憫ゆえ、今日のところは大事にならぬように取り計らう。そなたは早急に自室に戻り、これからの沙汰を待つのが良かろう」
 はい、と、消え入るような声がかすかに聞こえたかに思えた。
 たかが下っ端の女官風情が畏れ多くて、到底竜顔を見られるはずがない。明姫はただ震えながら両手をつかえ、額が地面にこすれんばかりに頭を下げているのが精一杯であった。
「そなたはもう、下がりなさい」
 明姫がこれ以上、ここに居続けても、かえって大妃の怒りを煽るだけだと考えたのか、王は優しい声音で言った。
 その声があまりに優しげなものだったので、明姫は涙が出そうになった。この場で皆が明姫に冷たいまなざしを注ぐ中で、たった一人、優しさを見せてくれたのが至高の存在であるはずの国王だった―そのことは、大きな愕きでもあった。
 と、明姫はふと違和感を憶えた。それは違和感というよりは、予感と呼んだ方が良かったかもしれない。そんなことがあり得るはずもないのに、王の優しげな声音に、どこか聞き憶えがあるような気がしたのである。
 何かが閃いた。この深い声は、この声の持ち主は。ハッとして顔を上げた彼女の瞳に映じたのは、その声の主にふさわしい優しげで美麗な面立ちをした青年王だった。
 そんな、馬鹿なことがあるはずがない。明姫は我が眼を疑った。だが、少し離れた前方、天幕の中に設けられた国王の御座所に端座しているのは、紛れもなくユンその人であった。
 刹那、明姫は我が身の迂闊さを知った。李胤(イ・ユン)、その名が当代の若き国王と同じものであると、どうして思い至らなかったのだろう。
 だが、自分の恋した男がよもやこの国を統べる王であるとなど誰が考える? 平凡な娘、下級女官にすぎない自分の想い人が国王だなんて、誰が信じる?
 私が十五年の人生で初めて好きになった男は、この朝鮮国の王だった―。信じがたい衝撃がやっと哀しい現実として認識できた刹那、明姫の大きな瞳から、はらはらっと涙がこぼれ落ちた。とめどなく溢れる涙は地面を濡らし、黒い滲みを点々と作る。
 二人で寄り添って肩を並べて歩いた都の大通り、隠れ家で、まるで無邪気な子どものように膝枕をねだってきたユンの屈託ない笑顔。更に人気のない殿舎で明姫を情熱的に求めてきた彼の熱っぽい視線や明姫の身体中をまさぐった悪戯な指。
 それらの彼との大切な想い出の一つ一つが物凄い速さで甦り、遠ざかってゆく。
―私は生涯かけて、そなただけを愛し守り抜くよ。
 耳許で力強く響いたユンの声。真摯な表情で告げた誓いの言葉もすべては偽りにすぎなかったというのだろうか。
 自分が惚けたように王の顔を見つめていたことに気づき、明姫は慌てて顔を伏せた。間違っても、国王殿下と拘わりがあるなどと周囲に知られてはならない。今日ここで犯してしまった失態だけでも十分すぎるほどなのに、この上、国王と恋を語っていたなどと露見すれば、どれだけ窮地に追い込まれるか。
 幾ら明姫でも、今の自分の立場の危うさは十分に理解できた。
 明姫はもう一度地面に額をこすりつけると、そのまますごすごと御前を下がるしかなかった。

 明姫が逃げるように去った後、ユンはひたすら放心したように座っていた。
 あり得ないことだと思った次の瞬間、ひしひしと後悔が押し寄せた。
 いいや、あり得ないことなどなかった。明姫が後宮に仕える女官だと自分は十分すぎるほど知っていたのだ。どれほど宮殿が広大であろうと、同じ敷地内に暮らしているのに、何故、明姫と遭遇しないなどと高を括っていたのか。
 明姫に甘い言葉を囁き、無理に押し倒して陵辱しようとまでしながら、自分は彼女に対して誠意を見せようとはしなかった。むろん、彼女に対して口にした言葉は真から出たもので、嘘は一つも含まれていない。
 正妃である王妃とは形だけの夫婦だ。中殿が中宮殿にいる限り、明姫を正妃に迎えることはできないが、それでも、王妃に準ずる側室としては最高位の嬪の位を贈り、事実上の正室としての扱いを与えようとまで考えていた。 
 しかしながら、そのためにはまず大妃を説得しなければならない。明姫に告げた話はまったくの真実であった。彼は国王なのだ。ゆえに、彼が明姫を一途に求めるのであれば、その一存で彼女を後宮に召し上げることもできる。
 が、国王という立場と権威を行使して明姫を側室に迎えれば、明姫自身の立つ瀬はない。王を色香で誑かした、けしからぬ女と皆が寄ってたかって彼女を非難し攻撃するに違いない。そうさせないために―明姫を守るためには、できるだけ強行突破せずに穏便な形で明姫を後宮入りさせる必要があった。
 それには時間はかかるかもしれない。でも、その方が後々のことを考えれば、最も望ましいのだと自分に言い聞かせ、早く明姫を自分のものにしてしまいたいという欲望を抑え、ひたすら彼女恋しさに堪えてきたのである。
 だが、それは所詮、彼側の言い分にすぎない。明姫から見れば、結局は信じていた恋人に手酷く裏切られただけのことだ。彼女にとって、自分はさぞ不実な酷い男に思えるだろう。いや、実際、そう思われたとしても仕方ないだけのことを自分は彼女に対してした。
 言い訳はできないのは判っていた。