何でも、あなたに恋をする~後宮悲歌【ラメント】Ⅳ
ユンは笑いながら首を振った。
「お祖母さまは若い頃はさぞかし美人だったろう。もちろん今もお綺麗で若々しいけど、昔はあまたの男どもが求婚したのではないか? お祖母さまを射止めたお祖父さまは幸運だ」
明姫が低い声で言った。
「何が言いたいの? くだらない話ばかりしないで」
「そなたは美人のお祖母さまにそっくりだ。十五歳でそれだから、二、三年経てば、花がひらくように艶やかに咲き誇るだろう。私はそなたを花開かせるのが愉しみだよ」
「いやあね。色ぼけた爺ィのようなことを言わないで」
「色ぼけた爺ィか。こいつは良い」
ユンは何がおかしいのか、腹を抱えて笑い出した。
「勝手にして」
明姫は笑っているユンの手から揚げパンを取り戻し、勝手にぱくつき始めた。
「明姫、私はああいうお祖母さまが欲しくても、側にいてくれなかった」
ふとユンが笑いをおさめ、真顔になった。
「私の子どもの頃の話は少ししただろう? 父が早くに亡くなり、母と二人だけだった。その母を私は愛せなかった。母は私に母なりに精一杯の愛情を注いでくれたのだとは理解できたが、母の過剰な愛も愛の示し方も、幼かった私には重すぎた。たぶん、母の愛を受け容れられなかった私以上に、母は傷つき悩んだはずだ」
いつしか揚げパンを握りしめる明姫の手が震えていた。
「何故、私が母の愛を受け容れられなかったか判るかい?」
明姫は首を振ることで意思表示を示した。泣いていることをユンに知られたくなかったからだ。
「母は私が心から望んだ家庭の温もりを与えてくれなかった。膝に乗せて本を読み聞かせたり、手を繋いで庭を歩いたり。そんな何でもないささやかなふれあいを私は欲しかったんだ。何人もの家庭教師や高価な玩具、そんなものは何の価値もなかったよ。ただ母に抱きしめて頬ずりして貰えれば、それで十分だった」
ユンが優しい笑みを浮かべた。
「そんな私から見れば、明姫は贅沢だと思う。帰る家とそこで待ってくれている人がいる。それがどんなに恵まれた幸運なことか、そなたはまだ判っていない」
と、ユンが眼を見開いた。
「どうしたんだ! 泣いているのか」
明姫がしゃくり上げながら言った。
「ユンが可哀想で。私、ユンがそんなことまで考えてたって、全然知らなくて」
明姫は頬を流れ落ちる涙をぬぐいもせずに続けた。
「なのに、ユンはそんなに優しい眼をしてる。淋しかったはずなのに、いつも誰にでも優しい。私、ユンの夢を応援するから。あなたがさっき話してくれた―誰もが幸せに暮らせる身分差のない国を作るっていう夢を応援する。ずっと、あなたの側にいて、私にできることがあれば手伝わせて」
「明姫」
ユンが泣いている明姫を引き寄せた。
「私は今、幸せだよ。こうして、生涯にただ一人の想い人にめぐり逢えた。そなたはいつもただ私の側にいて、笑っていてくれれば良い」
「ユンが膝枕をして欲しいと言ったのは、そのせいだったのかもしれないわね」
「え、何が何のせいだって?」
ユンには今の呟きが聞こえなかったようだ。明姫は微笑んだ。
「良いの。ただのひとりごとだから。ね、膝枕してあげるから、横になって」
「そうか、明姫がそんな殊勝なことを言うのは滅多にないだろうからな」
ひとこと余計なことを言い、ユンは明姫の膝枕でごろりと横になった。
「うーん、最高だ。惚れた女の柔肌に抱かれて眠りに落ちるこの瞬間が堪らんなぁ」
そんなことを言うから眠るのかと思ったら、ユンはぱっちりと眼を開いている。
「やあね。そんなに真下から見ないでよ」
明姫が居たたまれずに言うのに、ユンは悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「いや、綺麗だなと思ってさ、私の嫁さんは」
彼の直截な褒め言葉には一向に慣れそうにもない。頬から火を噴きそうだ。
「何を言ってるんだか」
照れ隠しに早口で憎まれ口を言った。
「そのチマチョゴリ、よく似合ってる。とても綺麗だ」
どこの誰が贈ってくれたかも判らない今日の衣装を手放しで褒めてくれる。
「ねえ、一つだけ訊いても良い?」
「何だ?」
心なしかユンの声が少し固くなった。また、彼の正体云々の話をされると警戒したのかもしれなかった。
だが、明姫はまったく別のことを口にした。
「この間、色町を通ったでしょう」
「ん? 色町―」
意外なことを言われ、ユンは完全に拍子抜けの顔である。
「月琴楼とか見世の名前も出ていたけど、ユンはあんなお見世によく行くの?」
「ははーん、さては明姫、妬いてるな」
ユンはひどく嬉しそうだ。あまりに嬉しそうなので、明姫は悔しくなった。
「誰が妬くもんですか! あなたがどこの妓房に行こうが、あなたの勝手でしょ。私は知らないわ」
つんと顎を逸らすと、くくっと噛み殺した笑いが聞こえてくる。
「どこまで可愛くないんだかね」
ユンがそれから幾ら話しかけても、明姫は返事しなかった。しばらくそんな状態が続いて、流石に怒ったのかとユンの顔を覗き込んだ時、彼は既に低い寝息を立てていた。
まるで母親の膝で眠っているような、安らいだ安心しきった表情を見ている中に涙がまた溢れてきた。
―ただ母に抱きしめて頬ずりして貰えれば、それで十分だった。
あのときのユンの切なげなまなざしや振り絞るような口調が哀しかった。彼が何故、自分に膝枕をさせたがるのか、今日やっと、その理由が判った。
ユンも明姫の知らない部分を見つけたと言っていたけれど、明姫自身、彼の隠れた脆い部分を見たような気がする。
「大好きよ」
明姫はいつまでもユンの顔を見つめていた。この世でたった一人の恋しい想い人の寝顔を。それはまるで本当の新婚夫婦のような微笑ましい光景だった。
結局、その日、二人ともに、ユンの素性については話さなかった。明姫も何度も訊ねかけて、言葉を飲み込んだ。正直、怖かった。
色々と考えてみても、ユンの正体について、最も可能性がありそうなのは領議政ペク・ヨンスの息子ではないかという線だった。既に彼が領議政の血縁であり、最も近しい甥という立場であるのは知っている。
だが、甥ではなく、息子なのだとしたら?
そのときも自分は彼を今までどおり愛せるだろうか? 領議政は九年前、明姫の両親や弟を火事に見せかけて殺した憎い宿敵なのだ。その息子もまた明姫にとって仇であることに変わりはなかった。
もし、本当は領議政の息子だなんて言われたら、ユンとはもう一緒にいられない。そう考えたら、到底、彼の素性について問いただせられるものではなかった。いざ問おうとしても、言葉が塊のようになって喉元につかえて出てこないのだった。
それから四日が過ぎた。その日、大妃殿は早朝から色めき立っていた。というのも、今日は昼前から大妃主催で花見の宴が行われるからだ。もっとも、宴といっても、ごく内輪のもので、招かれたのは若き国王夫妻、この度、入宮したばかりの新しい側室尹(ユン)昭儀、王妃の父であり現在、朝廷の第一人者領議政ペク・ヨンスのみである。
ユン昭儀は言うまでもなく領議政の養女格として入宮しているから、大妃側の人間と見なされている。
作品名:何でも、あなたに恋をする~後宮悲歌【ラメント】Ⅳ 作家名:東 めぐみ