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何でも、あなたに恋をする~後宮悲歌【ラメント】Ⅳ

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「私は確かに儒教を重んじねばならない立場だが、本来、身分制度は誤った考え方だと思っている。人にも仕事にも貴賤はないんだ。国王や両班だけが正しいという考え方も間違っているし、隷民を金で売買するような非人道的なやり方も撤廃するべきだと信じている」
 明姫は息を呑んだ。彼は今、自分がどれだけ危険な思想を口走っているか自覚はあるのだろうか。
「明姫、私はいずれ、そんな国を作りたいと思っている。この朝鮮が隷民もいない、皆が等しく豊かで幸せに暮らせる国を目指してゆきたいんだ」
 今、この国では、人や国を治めるのは身分制度だと考えられている。でも、本来、治世は人の価値を決めて身分という固定枠に縛ることではない。
「国を治めるのは法だ。しかも、誰か―一部の特権階級が恩恵を蒙るような歪んだ法ではなく、誰もが平等に権利を持てる法を作りたい」
 ユンはきっぱりと言った。
「判ったから、ユン。幾ら何でも人の耳のある場所でそんな物騒なことを言っては駄目よ。誰が聞いているか判らないでしょ。役人に訴えられたら、捕らえられて、どんな酷い罰を受けるか知れたものではない」
「明姫は私の身を案じてくれるのか?」
「あなたが斬首刑になるところは見たくないわね」
 こんなときなのに、ユンは心底嬉しそうに笑っている。
「素直じゃないな、私の可愛い未来の奥さんは」
「誰が奥さんですって? 私はまだ、あなたの奥さんじゃないわよ」
「だから、未来のって言ってるだろ」
 相変わらずの二人は、他人が聞けば痴話喧嘩にすぎない言い合いをいつまでも続けていた。

 結局、二人は適当に町の市を眺めて回った後、ユンの隠れ家に立ち寄った。途中、露店で買い求めた惣菜をユンが甲斐甲斐しく小卓に並べる。
 キムチ、鶏肉の蒸し焼き、もやしのお浸し、揚げパン。即席にしては結構なご馳走だ。
「美味しそう」
 歓声を上げる明姫を、ユンは笑いながら眺めた。
「そなたはその歳で色気より食い気なのだな」
「美味しいものを食べるのは好きよ。幸せな気分になるもの」
 明姫が早速揚げパンに囓りつくと、ユンは苦笑した。
「少しは私の前でしとやかにふるまおうという気はないのか?」
「生憎だけど、全然ない。猫を被っても、いずれバレちゃうもの。本当に結婚する気なら、長い年月を一緒に暮らすわけでしょう」
「まあ、な」
 ユンはしばらく唖然と明姫を見つめ、鶏肉の蒸し焼きを手にした。自分が食べるのかと思いきや、手でむしって小皿に取り分けている。
「ほら、今度はこっちだ」
 箸で摘むと、明姫の口に運んでやった。
「美味しい」
 明姫はユンに食べさせて貰い、ご機嫌だ。
「美女にご馳走とくれば、やはり、これがなくては」
 ユンが出してきたのは、何と酒だった。
 明姫は眼を剥いた。
「愕いた。一体、いつどこで買ったの?」
「ふふん、ユンさまを甘く見てはいかん」
 ちゃかりと安物の酒を調達していたようである。
「少しだけなら良いだろう」
 ユンは杯を二つ持ってくると、一つには手酌でつぎ、明姫にもついでくれた。
「そなたも呑んだら、どうだ?」
「昼間からお酒なんてねぇ」
 やはり、明るい中からの飲酒には抵抗がある。
「そなたの酔ったところを一度見てみたいな。酔わせてみれば、いっそう色っぽくなるかも」
 ユンの手が伸びてくる。
「明姫の身体はやわらかい」
 その手が腰から尻にかけてそろりと撫で上げたので、明姫はピシャリと叩いてやった。
「今はまだお昼なのよ」
「そなたはやけに昼に拘るな。ならば、夜なら良いのか? では、今夜また、二人きりで過ごすのも良いな。そなたさえその気なら、祝言よりも前に深間になっても私は一向に構わないぞ?」
 と、また不埒な手が伸びてこようとしたので、明姫はまた軽くその手を叩いた。
「まったく、油断も隙もない助平ね、ユンは」
「助平とは酷い物言いだ。傷ついた、生まれて初めて女から助平と言われてしまった」
 それからしばらくユンは一人で酒を飲んでいた。食べる物は食べずに、ひたすら杯を傾けている。もしかしたら、ユンは存外に酒豪なのかもしれなかった。世の中には幾ら呑んでも酔わないという奇蹟のような人間がいるものだ。
 現実として、今の彼は既に買ってきた酒瓶を殆ど空にしてしまっている。が、ユン自身は殆ど素面のときと変わらない。辛うじて眦が少しだけ紅く染まっていて、それが紅を眼許にはいたようにも見えて、凄く色っぽい。
 男の色香というものが迫ってくるようで、元がかなりの美貌だけに凄艶ささえ漂っている。
「明姫」
 改めて名を呼ばれ、彼にすっかり心奪われていた明姫は慌てた。
「はい?」
 その拍子に鶏肉を喉に詰まらせて、むせている。ユンが盛大な溜息をついた。
「とりあえず話より水を飲め」
 水の入った椀を手渡され、一息に飲み干す。
「ああ、助かった。死ぬかと思った」
 ユンが声を立てて笑う。
「今日は知らなかったそなたの一面が色々と見られて興味深い」
「で、何の話なの」
 明姫が話を振るのに、ユンは頷いた。
「お祖母さまのことだ」
「そのことなら話は済んだ。もう良い」
「良くない」
 ユンは、二個目の揚げパンを取ろうとした明姫から、さっと取り上げた。
「あっ、私の揚げパン」
「きちんと話をしたら、揚げパンは返してやるから」
 明姫はむうと頬を膨らませた。
「まるで子どもだな」
 ユンは明姫の頬をいつものようにチョンとつつき、また笑った。
「お祖母さまをもう少し大切にしろ。それから、目上の方にはもっと敬意を持って接しなければならない。後宮に長年いるそなたがそれを判らぬはずはないと思うが」
「そこまであなたに指図される憶えはないわ。あの人はいつもああなのよ。相手が誰であろうと、よく考えもせずに言いたいことをぺらぺらと話すの。尊敬なんて、できない」
 プイと顔を背けた明姫にユンが強い口調で言った。
「良い加減にしないか、それがお祖母さまに言う科白か?」
「だって、あの人は」
「あの人などという呼び方は止めるんだ。ちゃんとお祖母さまと呼ぶんだ」
 きつい口調で言われ、明姫は渋々〝判ったから、そんなに怒鳴らないで〟と呟く。
「そなたのことを心配されていたぞ」
「誰が」
 依然としてあらぬ方を向いたままの明姫である。それでも、ユンの静かな声が心に滲みた。
「お祖母さまに決まってるだろうが」
「あの人―お祖母さまが私のことを心配してた? あり得ない」
 ユンに睨まれ、慌てて途中で言い直す。
「そなたが部屋を出ていった後、私に直々に言われた。そなたのことを末永くよろしくと」
「―嘘でしょ」
「私が嘘を言って、何か得があると思うか?」
「ないわね」
「そう思うなら、少しは反省することだな。お祖母さまはこうもおっしゃっていたぞ。明姫は賢くて優しい娘だが、思ったことがそのまま顔や態度に出るから心配なのだと言われていた」
「何、それ。まるでお祖母さま自身のことじゃないの」
 明姫がまた膨れるのに、ユンがほっぺたをつつく。
「気安く触らないで」
「私は未来の良人だから、特別にそなたに触れる権利があるんだ」
「変な理屈」
「そなたとお祖母さまはよく似ている。明姫は気づいていないようだがな」
「まさか。冗談言わないでね」