何でも、あなたに恋をする~後宮悲歌【ラメント】Ⅳ
「何と、明姫の婚約者とな」
祖母の顔が生き生きと輝き始めた。こんなときは、大抵ろくでもない展開になるに決まっている。明姫はもうこの場から逃げ出したいとすら思った。
「それにしても、お祖母さまはお若いですね。私、迂闊にもお祖母さまではなく、お母さまかと勘違いするところでした」
「まっ、年寄りを心にもないお世辞でからかうものではありませんよ」
口では言いながら、祖母はかなり嬉しそうだ。明姫は頭痛と目眩がしそうになり、額を押さえた。
確かに祖母は六十前には見えない。男好きのする派手やかな美貌はこの歳になってもさほど衰えておらず、若作りしているせいで四十代といっても通りそうだ。
今日も深紅のチョゴリに濃紺のチマと二十代の娘が着てもおかしくないような派手な装いである。もちろん、例によって指には幾つもの指輪、髪にはきらきらしい簪がこれでもかというくらい挿してある。
「それにしても、良い男だこと」
祖母はうっとりとユンを見つめている。祖母の白粉を厚塗りした顔が上気しているのは気のせいだと―思いたい。
対するユンは黄緑色のパジチョゴリをこざっぱりと着こなしている。こちらも仕立ての良い絹製なのは疑いようもない。鐔広の帽子から顎に垂れ下がっているのは服の色に合わせたのか、翡翠だろう。
確かに見慣れているはずの明姫が見ても惚れ惚れとするほどの男ぶりではある。
「どこから、こんな良い男を連れてきたの?」
あまりといえばあまりの言い方に、明姫まで別の意味で頬が紅くなる。もちろん、恥ずかしいからだ。無教養なわけでもないのに、どうして、こういう品のない言い方しかできないのだろう。
「上手いこと、誑かした―いや、捕まえたのね」
そう言ってから、肩を竦めた。
「どっちの言い方もたいして変わりないかね」
「お祖母さま、良い加減に止め―」
言いかけたところを脇からユンが止めた。
「良いではないか。私のことなら、気にしなくて良いから」
小声で話しているから、祖母には聞こえていないはずだ。現に、祖母は上機嫌で喋り続けている。
「あなたのお父さまの官職は?」
「お祖母さま!」
明姫が咎めるように叫んでも、ユンも祖母もまるで明姫など無視して話し込んでいる。
「父は既に亡くなりました。私は集賢殿で学者をしております」
「そうなのですか。道理で秀でた良いお顔立ちをなさっていると思ったわ」
祖母は満足げに頷き、明姫に向かって告げた。
「明姫、この方は貴人の相があるわ。集賢殿止まりで終わるとは思えませんよ。きっとゆくゆくは出世なさる」
「お祖母さまは観相もなさるのですか?」
ユンが愕いて見せると、祖母は年甲斐もなく少女のように恥じらう。
「あら、ほんの真似事よ。私の母が占い師をしていたものだから、私にもその血が流れているのかもしれませんね。もしかしたら、そこの明姫にも素質があるかもしれない」
占い師は当時、あまり良い職業とは見なされなかった。人は占い師を怖れ敬うが、ちゃんとした真っ当な仕事とは認められない。祖母の母は〝女巫女〟と呼ばれ蔑まれていた低俗な占い師であったという。それが思いがけず下級両班の手が付いて身籠もり、祖母を生んだ。
その男の妻に実子が生まれなかったため、やむなく引き取られ正妻の子として養育されたのだ。祖母が父親に引き取られた後、その母である女占い師はいずこへともなく姿を消したそうだ。
誰が聞いても、あまり褒められた出自ではない。
「お祖母さま、余計なことを言わないでちょうだい」
ついに堪忍袋の緒が切れた。明姫は立ち上がると、袖から巾着を出した。ユンの前で崔尚宮の名前は出せない。黙っていれば、ここが崔尚宮の実家だとは判らないはずだ。
「これは預かり物です。これを渡してしまえば、もう用はないから、私は帰ります」
どうぞお元気で。消え入るような声で言い、明姫は逃げるように部屋から出た。
明姫が部屋を飛び出し、クヒャンは眼を丸くしていた。
「まあまあ、相変わらずね、あの子は」
ころころと笑うと、ユンを見つめる。
「ご覧のとおりの娘です。ふた親を早くに亡くして、わずか六歳で女官になるために宮中に入りましてね。あれで苦労したはずです。賢く優しい娘なのですが、どうも思ったことがそのまま顔に出るようで、それが祖母としては不安なのですよ。どうぞ末永くお側に置いて慈しんでやって下さいませ」
「今のお祖母さまのお言葉、胸に刻みます。こちらそ、良いお嬢さんを妻に迎えることができて、この上ない幸せだと思っています」
ユンは丁重に応え、立ち上がった。
「それでは、今日のところは失礼いたします」
「くれぐれも明姫をよろしく」
「ご心配ありません。私の生命が続く限り、大切にします」
ユンはクヒャンに向かって礼儀正しく一礼すると、静かに部屋から出た。
「それにしても凛々しく美しい若者だこと。私がもう三十年若ければねぇ」
ユンが居なくなった室で、クヒャンは明姫が聞けばまた怒り出しそうなことを独りごちていた。
「でも、おかしいわ」
クヒャンは首を傾げ、よく手入れされ紅色に染められた形の良い爪を見つめる。
「あの若者の相はどう見ても、集賢殿の学者などではない。そう、彼の上には鳳凰が見えたわ。大空を悠々と翼をひろげて飛ぶ鳳凰、それから」
クヒャンはゆっくりと首を振る。
「いずれにせよ、あの男はただ者ではない。先刻の言葉に偽りはなかった。明姫を大切に遇してはくれるだろうけれど、果たして、あの男にめぐり逢ったのが明姫にとって良かったのかどうか」
クヒャンは重い吐息を吐くと、疲れたように眼を瞑った。そうやっていると、若々しく見える彼女もやはり歳相応に見えた。その時、〝女巫女〟と呼ばれた占い師を母に持つクヒャンは可愛い孫娘の未来に何を見ていたのだろうか。
あまり磨かれていない廊下を小走りに進み、玄関まで出たところで溢れる涙をぬぐった。涙が後から後から溢れ出て止まらない。庭へと降りる階を降りきった時、背後からユンが追いかけてきた。
「明姫」
「放っておいて」
明姫は頬を流れ落ちる涙を乱暴に手のひらでこすった。
「何で泣くんだ?」
「恥ずかしいわ」
「何が?」
明姫はキッとなった。
「祖母のことに決まってるじゃない」
ユンが意外そうな表情で言う。
「どこが恥ずかしいんだ。良いお祖母さまではないか」
「全部、全部いやなの。恥ずかしいったらない。私の曾祖母が占い師だっただなんて、あなたの前でわざわざ言わなくても良いことを言うし」
「別に私は全然気にしてないぞ。占い師のどこが悪い? 職業に貴賎はない。それに、占い師は預言をすることによって人を幸せに導くこともできる益のある仕事だ。何を恥じる必要があるというのだ?」
「職業に貴賤はないですって? それを儒学者のあなたが言うの? この国は身分制度で成り立っているわ。私はそれが正しいとは思わないけれど、国王さま、両班だけが正しくて、それ以外の人は何をしても、たとえ両班に非があったとしても勝ち目はない。そんな教えを唱えているのがあなたたち学者でしょう」
「私は」
ユンが流石に躊躇する素振りを見せた。
祖母の顔が生き生きと輝き始めた。こんなときは、大抵ろくでもない展開になるに決まっている。明姫はもうこの場から逃げ出したいとすら思った。
「それにしても、お祖母さまはお若いですね。私、迂闊にもお祖母さまではなく、お母さまかと勘違いするところでした」
「まっ、年寄りを心にもないお世辞でからかうものではありませんよ」
口では言いながら、祖母はかなり嬉しそうだ。明姫は頭痛と目眩がしそうになり、額を押さえた。
確かに祖母は六十前には見えない。男好きのする派手やかな美貌はこの歳になってもさほど衰えておらず、若作りしているせいで四十代といっても通りそうだ。
今日も深紅のチョゴリに濃紺のチマと二十代の娘が着てもおかしくないような派手な装いである。もちろん、例によって指には幾つもの指輪、髪にはきらきらしい簪がこれでもかというくらい挿してある。
「それにしても、良い男だこと」
祖母はうっとりとユンを見つめている。祖母の白粉を厚塗りした顔が上気しているのは気のせいだと―思いたい。
対するユンは黄緑色のパジチョゴリをこざっぱりと着こなしている。こちらも仕立ての良い絹製なのは疑いようもない。鐔広の帽子から顎に垂れ下がっているのは服の色に合わせたのか、翡翠だろう。
確かに見慣れているはずの明姫が見ても惚れ惚れとするほどの男ぶりではある。
「どこから、こんな良い男を連れてきたの?」
あまりといえばあまりの言い方に、明姫まで別の意味で頬が紅くなる。もちろん、恥ずかしいからだ。無教養なわけでもないのに、どうして、こういう品のない言い方しかできないのだろう。
「上手いこと、誑かした―いや、捕まえたのね」
そう言ってから、肩を竦めた。
「どっちの言い方もたいして変わりないかね」
「お祖母さま、良い加減に止め―」
言いかけたところを脇からユンが止めた。
「良いではないか。私のことなら、気にしなくて良いから」
小声で話しているから、祖母には聞こえていないはずだ。現に、祖母は上機嫌で喋り続けている。
「あなたのお父さまの官職は?」
「お祖母さま!」
明姫が咎めるように叫んでも、ユンも祖母もまるで明姫など無視して話し込んでいる。
「父は既に亡くなりました。私は集賢殿で学者をしております」
「そうなのですか。道理で秀でた良いお顔立ちをなさっていると思ったわ」
祖母は満足げに頷き、明姫に向かって告げた。
「明姫、この方は貴人の相があるわ。集賢殿止まりで終わるとは思えませんよ。きっとゆくゆくは出世なさる」
「お祖母さまは観相もなさるのですか?」
ユンが愕いて見せると、祖母は年甲斐もなく少女のように恥じらう。
「あら、ほんの真似事よ。私の母が占い師をしていたものだから、私にもその血が流れているのかもしれませんね。もしかしたら、そこの明姫にも素質があるかもしれない」
占い師は当時、あまり良い職業とは見なされなかった。人は占い師を怖れ敬うが、ちゃんとした真っ当な仕事とは認められない。祖母の母は〝女巫女〟と呼ばれ蔑まれていた低俗な占い師であったという。それが思いがけず下級両班の手が付いて身籠もり、祖母を生んだ。
その男の妻に実子が生まれなかったため、やむなく引き取られ正妻の子として養育されたのだ。祖母が父親に引き取られた後、その母である女占い師はいずこへともなく姿を消したそうだ。
誰が聞いても、あまり褒められた出自ではない。
「お祖母さま、余計なことを言わないでちょうだい」
ついに堪忍袋の緒が切れた。明姫は立ち上がると、袖から巾着を出した。ユンの前で崔尚宮の名前は出せない。黙っていれば、ここが崔尚宮の実家だとは判らないはずだ。
「これは預かり物です。これを渡してしまえば、もう用はないから、私は帰ります」
どうぞお元気で。消え入るような声で言い、明姫は逃げるように部屋から出た。
明姫が部屋を飛び出し、クヒャンは眼を丸くしていた。
「まあまあ、相変わらずね、あの子は」
ころころと笑うと、ユンを見つめる。
「ご覧のとおりの娘です。ふた親を早くに亡くして、わずか六歳で女官になるために宮中に入りましてね。あれで苦労したはずです。賢く優しい娘なのですが、どうも思ったことがそのまま顔に出るようで、それが祖母としては不安なのですよ。どうぞ末永くお側に置いて慈しんでやって下さいませ」
「今のお祖母さまのお言葉、胸に刻みます。こちらそ、良いお嬢さんを妻に迎えることができて、この上ない幸せだと思っています」
ユンは丁重に応え、立ち上がった。
「それでは、今日のところは失礼いたします」
「くれぐれも明姫をよろしく」
「ご心配ありません。私の生命が続く限り、大切にします」
ユンはクヒャンに向かって礼儀正しく一礼すると、静かに部屋から出た。
「それにしても凛々しく美しい若者だこと。私がもう三十年若ければねぇ」
ユンが居なくなった室で、クヒャンは明姫が聞けばまた怒り出しそうなことを独りごちていた。
「でも、おかしいわ」
クヒャンは首を傾げ、よく手入れされ紅色に染められた形の良い爪を見つめる。
「あの若者の相はどう見ても、集賢殿の学者などではない。そう、彼の上には鳳凰が見えたわ。大空を悠々と翼をひろげて飛ぶ鳳凰、それから」
クヒャンはゆっくりと首を振る。
「いずれにせよ、あの男はただ者ではない。先刻の言葉に偽りはなかった。明姫を大切に遇してはくれるだろうけれど、果たして、あの男にめぐり逢ったのが明姫にとって良かったのかどうか」
クヒャンは重い吐息を吐くと、疲れたように眼を瞑った。そうやっていると、若々しく見える彼女もやはり歳相応に見えた。その時、〝女巫女〟と呼ばれた占い師を母に持つクヒャンは可愛い孫娘の未来に何を見ていたのだろうか。
あまり磨かれていない廊下を小走りに進み、玄関まで出たところで溢れる涙をぬぐった。涙が後から後から溢れ出て止まらない。庭へと降りる階を降りきった時、背後からユンが追いかけてきた。
「明姫」
「放っておいて」
明姫は頬を流れ落ちる涙を乱暴に手のひらでこすった。
「何で泣くんだ?」
「恥ずかしいわ」
「何が?」
明姫はキッとなった。
「祖母のことに決まってるじゃない」
ユンが意外そうな表情で言う。
「どこが恥ずかしいんだ。良いお祖母さまではないか」
「全部、全部いやなの。恥ずかしいったらない。私の曾祖母が占い師だっただなんて、あなたの前でわざわざ言わなくても良いことを言うし」
「別に私は全然気にしてないぞ。占い師のどこが悪い? 職業に貴賎はない。それに、占い師は預言をすることによって人を幸せに導くこともできる益のある仕事だ。何を恥じる必要があるというのだ?」
「職業に貴賤はないですって? それを儒学者のあなたが言うの? この国は身分制度で成り立っているわ。私はそれが正しいとは思わないけれど、国王さま、両班だけが正しくて、それ以外の人は何をしても、たとえ両班に非があったとしても勝ち目はない。そんな教えを唱えているのがあなたたち学者でしょう」
「私は」
ユンが流石に躊躇する素振りを見せた。
作品名:何でも、あなたに恋をする~後宮悲歌【ラメント】Ⅳ 作家名:東 めぐみ