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何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌【ラメント】~ Ⅲ

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 明姫は一人で勝手に歩き始めている。
「おい、待てよ。今日は折角の逢い引き(デート)だっていうんで、愉しみにしてきたんだぞ」
 明姫がくるりと振り返りざま、叫んだ。
「誰が誰と逢い引きですって?」
 ユンが〝おお、怖〟と大仰に愕いた仕種をするのも憎らしい。
「大体、何であなたがこんな場所にいきなり現れるのよ?」
「そなたが宿下がりするという情報を仕入れたんだ。それで逢い引きがてら、そなたの実家に挨拶に行く丁度良い機会だと思ってな」
「実家に挨拶?」
 素っ頓狂な声を上げる明姫に、ユンは当然だと言わんばかりに胸を反らした。
「男たるもの、妻となる女の実家に挨拶に行くのは当然であろう」
「あなた、小説の読み過ぎじゃない?」
 明姫は呆れたように、これ見よがしに溜息をついた。この頃、都では〝小説〟なるものが大流行している。何でも物語を挿絵付きで書きあらわしたもので、これが本仕様になって若者たちの間で熱心に読まれているというのだ。
 人気のある小説は書店でも売り切れ続出、入手は順番待ちだという。男女が全裸で絡み合う過激な挿絵と露骨な性的描写がある読み物ということで、朝廷では何かと物議を醸し、ついには発売・流通全面禁止という触れが出された。
 しかし、そんなものは熱狂する若者たちには一切通用しない。幾ら禁止しようと、彼等はどこからか探し出してきて、いつしか巷ではその類の淫猥(エロ)本がしきりに出回っている。中には、ひそかに原本を手に入れた者がそれを書き写して法外な高値で町の古本屋に売って大儲けをするという話まで出てきた。
 そうして、不埒な小説の写本・複製が闇市で売買され、また新たな販路を通じて若者たちにひろまってゆくという悪循環が続く。ついには一般庶民だけではなく、人々の範となるべき両班までもがこっそりと淫猥本を高値で闇屋から買い上げる―という実にけしからぬ事態にまで発展したとか。
「馬鹿を申すな。私はそのような俗なものは読まぬ」
 ユンは眉根を寄せたが、明姫は笑った。
「あら、でも最新の小説には、主人公の少女の恋人が身分違いの結婚を許して貰うために、女の子の実家を訪ねる場面があるのよ」
「それは、主人公の恋人が下僕だからだろう。私は下僕ではない。これでも、れっきとした集賢殿の学者だ」
 ユンの言葉に、明姫はほくそ笑んだ。
「まさに、語るに落ちるだわね。その小説を読んでない人がどうして主人公の恋人が下僕だなんて知ってるの?」
「そっ、それはだな」
 ユンは盛大な咳払いをした。
「大殿の内官―いや、爺やが年甲斐もなく、勤務中に小説などを読んでいるから、つい私も」
 なおも言い訳めいた科白を並べようとするユンに、明姫は微笑んだ。
「別に良いじゃない、学者だからって、いつも漢字ばかりが並んだ難しい漢籍と睨めっこしてるとは限らないわけだし。たまには息抜きしないとね」
「えっ」
 ユンが固まった。
「ユンもそういう本を読むんだって、少し安心したわ、っていうか、あなただからこそ、そういう本を読むのが似合ってるともいえるかしら」
「褒められるているのか、けなされているのか判らんな」
 ユンが真剣に悩んでいる間にも、明姫はさっさと一人で歩いてゆく。ユンは危うく置いてきぼりになりそうになり、慌てて彼女の側に並んだ。
「私の家はもう少し先なの。直に着くわ」
「そなたの祖母どのは、どんな方なのだ?」
 到底、派手好きの吝嗇だとはいえない。
「歳の割には明るい色目の衣装を好むわ。あとは、そう、倹約家ね」
「そうなのか。倹約家とは、そなたの祖母どのらしいな」
 明姫はじろりと睨んだ。
「それも褒められているのか、けなされているのか判らない。何だか私が倹約家みたい」
 しばらくして、ポツリと思い出したように言った。
「最近は身分違いの恋が流行ってるらしいわねえ。例の小説の影響ではないかって、お役人が血相変えて本の流通を取り締まっているけれど」
「両班の令嬢と下僕の恋か?」
「幾ら取り締まりを厳しくても、人の心まで取り締まれないのに」
 明姫は小さな溜息をつき、足許の小石を靴の先で蹴った。
「ねえ、この服をどう思う?」
 ユンが眼を見開き、微笑んだ。
「似合ってるぞ、凄く。まるで明姫のために作ったようだ」
「この服を私にって贈ってくださった方がいるみたいなの。崔尚宮さまから三日前に渡されたのよ。今日の外出にもこの服を着ていくようにって言われて。何が何だか皆目判らないことばかり。それに」
 明姫は唇を噛んだ。
「尚宮さまは、どうやら私たちのことを知っているらしいわ。あの夜、誰かに見られていたのかしら。この服を下された時、あなたとのことも遠回しに指摘された。分相応の恋をしなければならないとも言われたわ」
 もう、どうすれば良いか、判らない。明姫が呟くと、ユンが真剣な声音で言った。先刻までとは異なり、別人のような声だ。
「崔尚宮は、分相応の恋と言ったのか?」
「そう、つまり、私とあなたの恋は分不相応ということ」
 ユンは何も言わない。明姫は傍らのユンを見上げた。
「ねえ、あなたは本当に集賢殿の学者なの? 私の実家は確かに力もないし落ちぶれているけれど、一応は両班よ。あなたの実家もむろん両班だろうことは判る。でも、失礼を承知で言えば、集賢殿の中級官吏ならば、大臣級の上流両班とは違う。あからさまに身分違いというほどの恋ではないと思うのに、何故、尚宮さまはあんなことをおっしゃったのか。あの日から、私はずっとその理由を考えてきたの」
 ユンは依然として何も言わなかった。ただ思案顔で真正面を見据えて歩き続けている。
「私はあなたがどこの誰でも良いの、あの夜の言葉に変わりはない、ユンが好き。でも、結婚ともなれば、私たちの気持ちだけでは済まなくなってしまう。あなたはあの夜、言ったわよね。皆に認められ祝福されて結婚したい。その想いは私も同じよ。今のままでは、私たち、難しいと思う」
 〝何が〟を略しているが、結婚が難しいと言っているのはユンにも判るはずである。
「あなたの本当の正体は何なの? あなたは、どこの誰?」
 ユンが口を開きかけたまさにその刹那、崔氏の屋敷の門が見えてきた。二人は気まずげに顔を見合わせ、その話はとりあえずそこまでになった。

 父親の代から崔家の執事をしているという若い執事が祖母を呼んでくる間、明姫は黙り込んでいた。通されたのは来客用の客室ではなく、祖母の私室であった。
 どうやら、父と異なり機転のきかない若い執事は、祖母に孫娘の他に客がいるときちんと伝えなかったようである。さもなければ、見栄張りの祖母が私室に客を通すはずがない。
 隣に座したユンもまた同様に沈黙を守っている。先刻の話が途中止めになって以来、二人の間にはずっとよそよしい空気が漂っている。祖母は自らの衣服や宝飾品には金をかけるが、屋敷を維持することに対してはたいして関心を抱いていないらしい。
 私室の座椅子は所々破けていたし、文机は愕くべきことに一カ所、脚が取れたのを間に合わせの棒切れを紐でくくりつけたまま使っている。
 片隅に置いてある棚は傾き、その上に乗った青磁の花瓶は縁が欠けた挙げ句、既に枯れた花が挿しっ放しになっていた。