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何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌【ラメント】~ Ⅲ

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 崔尚宮は墨絵の蓮が描かれた屏風を背にして、座椅子(ポリヨ)に座っている。尚宮たちもまた共通の制服が支給されるが、同じ尚宮でも位階が上と下では色が違う。その色の違いで下働きでも、上職の尚宮かどうか見分けがつくのである。
 崔尚宮は上職ではないから、上衣の色は鶯色だ。ちなみに上職の尚宮は淡い紫を纏うのが通例となっていた。
「お呼びと聞きましたが、何かご用でしょうか」
 元々はお転婆な明姫だが、流石に九年の後宮生活でひととおりの礼儀作法は身につけたし、猫を被ることも憶えた。宮中では立ち回りがある程度上手くなければ、生きてはゆけない。尚宮に命じられたことにおいても、一を聞いて十を知らなければ務まらない。
「脚の痛みはどうだ?」
 唐突に問われ、明姫はハッとした。十日近く前、休暇を貰って町に出た時、明姫は門限を大幅に破ってしまった。その罰として、崔尚宮に脚を鞭で打たれたのが悪化して、一時は膿んでいたのだ。
 あの傷はユンが塗ってくれた軟膏が随分とよく効いたようで、三日も経たない中に綺麗に治った。
「お陰さまで、今はすっかり治りました」
「そうか」
 崔尚宮はどこか安堵したような顔で頷き、手前の文机に乗せていた大きな包みを取り上げた。派手な牡丹色の風呂敷をおもむろに差し出してくる。
「これを」
 明姫は前に進み出て風呂敷包みを受け取った。
「尚宮さま、これは?」
「開けてみよ」
 命じられるままに風呂敷を解いてみる。中から現れた品を見て、明姫は感嘆の溜息をついた。
 明姫は普段から女官のお仕着せしか袖を通したことがない。そんな彼女の眼には、葡萄茶色の上衣と薄紅色のチマは随分ときらきらしく見えた。チョゴリは葡萄茶色といっても、地味ではなく、むしろ紅に近い。金糸で小花模様が一面に刺繍されている。
 ピンクのチマは目立たないすかし柄が全体に入っていて、更に前面に大胆にも梅の樹が手描きされていた。チマの中で満開の紅梅が今を盛りと咲き誇っている。
「尚宮さま、このお衣装は」
 若い娘なら誰でも一度は身に纏いたいと思うような華やかな逸品だ。明姫にもひとめで仕立ても上等で、しかも極上の絹が使われていると知れた。
 だが、一生涯、後宮で女官として過ごす明姫には縁のない代物でもある。何故、このようなものを自分に見せるのか、明姫は崔尚宮の意図を計りかねた。
 明姫の思惑を見透かしたかのように、崔尚宮は微笑む。
「さる方より、そなたに手渡して欲しいと頼まれたものだ」
「さる方?」
 こんな華やかで美しい衣装を贈ってくるような相手は思い浮かばない。記憶を手繰り寄せてみても、思いつかなかった。
 母方の実家には、今も祖母が健在ではある。祖父は五年前に亡くなったが、祖母は今もかくしゃくとして悠々自適の日々を送っていた。優しく思慮深かった祖父と異なり、祖母は吝嗇(ケチ)だ。自分の衣装代には金を平気で使っても、女官に上がっている孫娘にこんな高価な衣装を作ったりはしない。
 また贈り主が祖母であれば、崔尚宮がこんな持って回った言い方をするはずがなかった。
「失礼ですが、私には贈り主がどなたなのか見当もつきかねます」
 正直に応えると、崔尚宮は頷いた。
「さもあろう。しかしながら、私もまた、この衣装を託された方から、けして贈り主の名を口外してはならぬと言い渡されておる。ゆえに、ここでその約束を破るわけにはゆかないのだ」
「承知しました」
 贈り主から名前を知らせないようにと頼まれているというのなら、無理に訊き出すことはできない。崔尚宮の立場もある。
「小姫」
 突如として幼い頃の愛称を呼ばれ、明姫は眼を瞠った。崔尚宮が自分を〝小姫〟と呼ぶのは何かよほど大切な用事があるときか、伯母と姪として話したいときに限られているからだ。
「そなたに申しておきたいことがある」
「はい、何でしょう。伯母上さま」
 崔尚宮が伯母として話すというのなら、明姫もまた姪として耳を傾けようと思ったのだ。
「六つの頑是ないそなたを女官にすると決めた時、私は今だからこそ言うが、かなりの迷いがあった。そなたにはその理由が判るか?」
 しばらく考えた後、明姫は小首を傾げた。
「女官は生涯、国王殿下や中殿さまに忠誠を捧げて後宮で過ごします。ゆえに嫁ぐこともなく一生を終える者が多く、それゆえに伯母上さまが躊躇われたのでは?」
 崔尚宮がうっすらと微笑んだ。
「むろん、それもある。だが、断じて、それだけではない」
 崔尚宮のまなざしがふと遠くなった。
「私は十一歳で入宮した。別に誰から強制されたわけでもなく、自ら志願して女官になったのだ。以来、既に二十六年が過ぎている。後宮で育ち、多感な少女期も過ごした。様々な人と出逢い、幾多の出来事にも遭遇した。中には二度と帰らぬ人となった者もいる」
 今、崔尚宮の瞼に映っているのは、かつて彼女が出逢い別れてきた人々の懐かしい面影なのかもしれない。その中には、もしかしたら、桜草の咲く殿舎の妃―薄幸な佳人の顔も含まれているだろうか。
 伯母の瞳がすうっと細められ、俄に光を取り戻した。いつもの厳しい〝鬼尚宮〟と若い女官たちから怖れられる顔に戻っている。
「私は常々、このように考えておる。後宮ほど怖しき場所はない。たとえていうなら、水上の楽園だ。池の水面には蓮(はちす)が浮かび、この世の極楽のような美しさを見せているが、水面下にはどろどろとした醜い女の怨念や嫉妬が渦巻いている。時にその負の感情は謀略という形で水面上に出てくる。水面下では皆が互いに牽制しあい、他人の脚を隙あらば引っ張ろうと様子を窺っている。それが後宮という女たちだけの閉ざされた場所なのだ」
 国王という、ただ一人の至高の存在、男を巡って、幾千人もの女たちがあい争う場所、王の寵愛を得んがため、友人ですらも平気で欺き陥れるこの世の地獄。
「くれぐれも気を付けなさい。そなたももう一人前の女官として独り立ちした。今更、私が保護者顔であれこれと指図する必要もなく、また、そうあって欲しいと願っている。後宮に仕える女官にとって殿御との恋愛はご法度、露見すれば生命取りになることはそなたもよくよく心得ているはず」
「―」
 明姫は息を呑んだ。伯母上さまは、ユンとの恋愛を知っている?
 しかし、何故、伯母がユンのことを知っているのだろう。やはり、数日前の密会が誰かに目撃されていたのだろうか。慎重になりすぎるくらい慎重に行動したつもりだったけれど、甘かったのかもしれない。
 内官と夜の逢い引きをしていた他の女官に見つかった? それとも、見回りの兵や内官に見られたのだろうか。
 動揺のあまり、明姫は崔尚宮が痛ましげに自分を見つめているのに気づかない。
 崔尚宮が小さな息を吐いた。
「私は亡き妹から、そなたを託されたと思っている。私には子がないゆえ、そなたは娘同然だ。いずれ女官として最後まで勤め上げたら、そなたとともに宮殿を去り、二人でのんびりと暮らすのを愉しみにしているのだ。その私のささやかな愉しみを壊すようなことだけはしないで欲しい」