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何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌【ラメント】~ Ⅲ

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 以上の経緯は明姫でなくとも、後宮に少し長く暮らす者なら、誰でも知っていた。
 悪は千里を走るという。そういうスキャンダラスな噂―特にそれが国王やその母という高貴な人たちに関するものであれば―は、面白おかしく脚色され、瞬く間に人の口から口へと語り伝えられる。野火がひろがる勢いでやがて宮殿の外、即ち世間一般にも知れることにもなる。
 もちろん、後宮でも興味本位の噂話、憶測は一切禁止されているけれど、そんなものは何の効果もない。むしろ上の者たちが躍起になって止めようとすればするほど、悪しき噂は物凄い勢いで女官たちの間にひろまってゆくのだった。
 明姫が沈んでいるのを見、ユンが微笑む。
「まだ心配なのか?」
 彼女は笑って首を振った。
「ううん。それはもう良いの。だって、元はといえば、私の不注意だもの。後宮女官としてお仕えする身で大切な王室の書物を傷つけてしまった罪は逃れられないわ。たとえ、どんな罰を与えられても潔く受けるつもりよ」
 その言葉に、ユンが声を荒げた。
「そんな馬鹿な話があるか! 明姫の心がけは女官としては模範的なものかもしれないが、私は認められない。もし、その程度でそなたを罰する者があるというのなら、私が止めさせてやる。実の母であろうと、そなたを傷つける者は容赦しない」
「ユン、何をそんなに怒っているの? あなたが私を庇おうとしてくれているのは嬉しいけれど、正直、国王さまでも大妃さまを止めるのは難しいと思うわよ」
「そなたは国王がそれほどに力がないと思っているのだな」
「力の問題じゃない。国王さまにとって大妃さまはこの世でたった一人の母君でしょう。大妃さまにとっても国王さまは可愛い我が子だもの。たとえどれだけ高貴な方であろうと、血の繋がりは濃いものよ。国王殿下は大妃さまに距離を置いて接していらっしゃるけれど、本当はとても親思いのお優しい方だと大殿に仕える女官たちは皆話してる」
「つまり、国王が血の繋がりゆえに大妃さまに強く出られないと?」
 明姫はそれには応えず、笑んだまま続けた。
「ユン、後宮は怖いところね。私、今までは幽霊だとかは信じていなかったのに、今夜、この殿舎でお妃さまのお姿を見てから、少し考えが違ってきたみたい」
「幽霊が怖くなった?」
「私が怖いと思ったのは亡霊ではない。ユン、亡くなった人は時折姿を現すくらいで何もしないけれど、生きている人は違う。私は死者よりも人間が怖いわ」
 ユンを見上げる明姫の瞳が潤んだ。黒曜石の瞳が水晶のような露を帯びている。
「怖いの」
 繰り返す明姫を見ていたユンの腕が遠慮がちに伸びてくる。今はもう何の戸惑いもなく、明姫はユンの腕に抱かれた。
「何で人間を怖がるんだ? たとえどんなヤツが来ようと、私が明姫を守ってやるから、心配しなくて良い」
 ユンの力を帯びた声がこれほど頼もしく聞こえたことはなかった。
「判らない。私は一介の下級女官で、そんな私が空恐ろしい謀や陰謀に巻き込まれるはずもないのに、何故か胸騒ぎがしてならないの。お妃さまは一体、何を私に言いたかったのかしら。ただご自分の無念を伝えたいためだけに私の前に現れたのではないような気がして」
 ユンは明姫を腕に抱き、しばらく考え込んでいるようだった。やがて、静かな声音で言った。
「先刻、そなたが見たという女の亡霊のことだが、本当に見たのか?」
 明姫は小さく頷いた。
「嘘じゃないし、幻を見たわけでもない。小柄でほっそりとした方だった。とても美しいけれど、儚げで―とても哀しそうな顔をしていらしたわ」
 ユンが吐息をついた。
「昔語りをするとしよう。これは私が国王さまよりお聞きした話だ。その昔、この殿舎には美しいお妃が暮らしていた。当時、まだほんの幼子であった国王さまは、そのお妃をひそかに恋い慕っていた。もちろん、その思慕は子どもが臈長けた美しい女人に寄せる憧れ、淡い思慕でしかなかった。実の母にどうしても馴染めない国王さまは余計にそのお妃に惹かれていったんだ」
「たぶん、国王さまは淋しかったのね」
 明姫が相槌を打つと、ユンは笑った。
「やはり、そなたは見かけによらず、聡いな」
「まっ、失礼ね」
 ユンは微笑み、明姫のふっくらとした頬をつついた。
「ねえ、続きを話して。先が知りたいわ」
「明姫は見かけによらず賢くて聞き上手でもある」
 からかうように言われ、明姫は笑った。
「美しいお妃は心も同様に清らかで優しかった。狭い殿舎の庭にはいつも四季の花々が咲き乱れて行く人の眼を楽しませていたが、中でも彼女がこよなく愛したのが桜草だったという」
 明姫が眼を輝かせた。
「それで、この殿舎の庭園に桜草がたくさん咲いているのね」
「国王さまはお妃が亡くなり、自分が大人になっても、いまだに時々ここに来ているそうだよ。自ら庭の土を耕し、種を蒔いて桜草を育てている。不遇な中で亡くなったお妃の魂をせめて慰めたいと、今でも彼女の愛した桜草をこの庭で育てているんだ」
「きっと、お妃さまも歓ばれていると思うわ」
 明姫は言いながら、なるほどと得心がいった。この殿舎に脚を踏み入れた時、長らく無人のまま放置されていたにしては、荒れていないのに愕いたものだ。
 普通、人が住んでいない家というものは、幾ら手入れしたとしても、どことなく荒れて荒んだ雰囲気が漂っているものなのに、ここにはそれがなかった。
 やはり、国王が時折訪れているからだろうか。はるか昔に亡くなった美しいお妃のことを考えている中にふと我に返ると、ユンの視線が自分に向けられているのに気づいた。
「もしかしたら、昔、ここに住んでいたというお妃は、そなたに似ていたかもしれないよ」
 この上なく優しげなまなざしには、ほのかな熱も秘められていて。明姫は思わず頬が赤らむのを自覚した。
「わ、私はそのお妃さまのように綺麗でもないし、美人でもないわ。もう、良い加減なことばかり言わないでよね?」
「そうか? 私はそなたを可愛いし、美人だと思うが」
 そこで、よいしょと明姫の身体を持ち上げ、ユンは膝に乗せた。
「何より明姫は心が綺麗で優しい。そなたのような女に出逢えた私は幸せ者だ。そなたはは私の宝だよ、明姫」
「また、私をからかってるのね」
 真顔で囁かれ、明姫は身の置き所もなく、真っ赤になった。
「からかってなどいるものか」
 だから、大切にする。一生涯かけて、そなただけを愛し抜く。
 ユンの真摯な声音が二人だけの静かな空間に響いた。
「口づけても良いか?」
 これも真剣に問われ、明姫は真っ赤になって頷いた。
ユンの顔が近づく。
「眼を閉じてくれ。こういうときは、眼を閉じるものだ」
 ユンに囁かれ、慌てて眼を閉じる。ほどなく、しっとりとした感触が明姫の唇に押し当てられた。最初はチュッ、チュッと小鳥が啄むような軽いふれあいが次第に深くなってゆく。
 ユンの若さと想いと激情を物語るかのように、口づけは深く烈しかった。貪るように幾度も間断なしに奪われる。今度は明姫も少し大胆になった。ユンが差しいれてきた舌におずおずと自分の舌を絡めてみる。すると、すぐに彼はそれに応えるように明姫の舌を吸い上げてきた。