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何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌【ラメント】Ⅱ

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「そういえば、確かに外で人声を聞いたような気はしたな。だが、気のせいだろう。昼間の仕事がきつくて、疲れているのではないか? そのせいで幻覚を見たのかもしれない」
 明姫は烈しくかぶりを振った。
「違うの、違うんだってば。本当よ。私、幻なんて見てない。確かに、お妃さまだった。私を見て、泣いていたわ」
 ユンが溜息をつき、明姫の髪を撫でた。
「たぶん、そなたは疲れているのだ。そなたの直属の上司は誰だ? 昼間の仕事を少し減らしてみてはどうだろう」
 明姫はほんやりとユンを見上げた。
 まだ混乱のただ中にいる明姫には、ユンが何故、後宮人事や女官の仕事内容にまで口を出すのか、その不自然さまで考えられていなかった。
 今日の彼はやはり昼間見た、蒼色の官服を着ている。ユンがどんな官職に就いているかまだ知らないけれど、今夜は宿直か何かなのだろうか。にしても、仕事で宮殿に詰めている身なのに、呑気に女官と逢瀬を持っていても良いのだろうか?
「ユンはどこの部署にいるの?」
 そんなことを考えながら、何の気なしに訊ねると、彼は初めて少しだけ笑った。
「集賢殿(チッピョンジョン)だよ」
「集賢殿?」
「そう。集賢殿でそこそこの位階を賜って、日々、真面目に勤務している中級官吏だよ」
 では、町中で彼が集賢殿の学者だと名乗っていたのは、やはり真実だったのか。
 あの日の彼の服は極上の絹で仕立てられていた。あの身なりが中級両班のものとは少し妙な気もするが、家門の高低に拘わらず、金を持っている両班がいないわけではない。勤務する部署や役職によっては、表向きには禁止されている賄賂が入ってくる。
 半ば疑い半ば予想していたとおりの応えに、明姫は安心したように笑った。
「やっと笑ったな。明姫はそうやって明るく笑う顔がいちばんだ。泣き顔もなかなかそそられるけど」
「何よ、それ」
 明姫はまた笑う。
 ユンも笑顔になった。
「つまり、笑顔も泣き顔も魅力的だってこと」
「ユンはやっぱり、女の人を口説くのが上手ね」
 ユンが傷ついたような表情になる。
「また、そんなことを言う。私は息をつくように嘘はつけない男だと何度言ったら、信じてくれるんだ」
「だって、ユンを見てると、信じられないんだから、仕方ないでしょ」
 そこで、明姫は漸く今の状況に思い至った。自分が今、この瞬間、ユンの逞しい腕に閉じ込められていること、互いの呼吸さえ聞こえるほど間近にいること。
「ご、ごめんなさい」
 慌てて身体を引き離そうとすると、彼女の背に回ったユンの手に力がこもった。
「離して」
「離さない」
 ユンはいっそう強く明姫を抱きしめた。
「ユン!」
 抗議するように呼ぶと、ユンが嘆息する。
「先刻、明姫の方から私の腕に飛び込んできてくれたときは、物凄く嬉しかったんだけどな。やっと両想いになれたんだと思って、歓んだのに」
「り、両想い?」
 思わず声が上擦った。
「明姫は私に逢いたくなかった? 私はずっと、そなたの顔を見られない間、逢いたいと思っていたよ。考えるのは、そなたのことばかりだった」
 あまりにも直截な科白に、明姫の方が赤面してしまう。
「ユン、それって」
 明姫がおずおずと顔を上げると、愕くほど真剣な彼の顔があった。その熱を帯びた瞳を受け止められなくて、明姫は思わずうつむく。
「眼を逸らさないで。私を見てくれ」
 お願いだから。懇願するように言われ、明姫はまた彼を見上げる。
「そう言えば、まだ私の気持ちを伝えてなかったから、この際、きちんと話しておきたい。私は明姫が好きだ」
「ユン、待って。私は」
 ユンの黒い瞳が不安げに揺れる。
「明姫は私を嫌いなのか?」
 明姫は烈しく首を振った。
「違うわ。大す―」
 言いかけて、うなだれた。
「なに? よく聞こえなかった。もう一度、大きな声で言って」
 期待に瞳を輝かせるユンは本当に嬉しそうだ。明姫を好きだと言ってくれる言葉に嘘はないのかもしれなかった。確かに色々な顔を持つ男だし、底の知れない部分もある。
 見かけは両班のお坊ちゃん然として、どこまでものんびりとしているのに、時々見せる隙のなさや、端正な面をよぎる翳りのようなもの。見かけの泰然とした彼はほんの見せかけにすぎず、その奥底にはもっと別の顔が隠れているようにも思えてならない。
 それでも、明姫は彼を好きだ。たとえ彼の本性がただの道楽者の女タラシでも、気持ちは変わらないかもしれない―それほどまでに惹かれている。
 が、中級官吏とはいえ、ユンはれきとした両班の子息だし、官職にもついている。一方の明姫は後宮に仕える女官なのだ。女官は国王の所有という認識があるため、生涯、他の男と婚姻どころか恋愛も許されない。
 ユンはどうやら飄々としている割に、傷つきやすい脆い面がありそうだ。明姫はどうやって説明すれば、彼を傷つけず納得させられるか考えた。
「ユン、あなたの気持ちはとても嬉しい。私」
 言いかけたところ、烈しい語気で遮られた。
「礼なんて要らない。惚れた女に告白して、礼を言われるほど間の抜けたことはないから」
「私は何も別にそんなつもりで」
 あまりの剣幕に、明姫は気圧されたように黙り込んだ。何だか、いつもの彼とは違うようで、少し怖い。
「ね。お願いだから、離して」
 縋るように見つめると、ユンが視線を逸らした。
「そんな眼で見ないでくれ。私だって、男だ。そんな風に見つめられたら、明姫をこのままここで奪ってしまいたくなる。滅茶苦茶になるほど壊してしまいたい、抱きたいと思ってしまう」
 しかし、男女の間についてのことは何も知らない明姫には、彼の言葉の意味は理解できなかった。
「ユン?」
 ユンが漸く自由にしてくれたので、明姫は急いで彼から少し距離を置いた。
「今日のユンは少し変。いつものあなたと違うみたいで、怖いの」
 ユンがひっそりと笑った。
「大丈夫だ。別に明姫を怯えさせるつもりはないし、無理強いするつもりもない。今、ここで無理にそなたを抱くことはできないわけじゃない。でも、そんなことをすれば、明姫はきっと私を嫌いになる。私はそなたの心を永遠に手に入れることはできなくなるだろう。だから、怖がらなくて良い」
 ユンの顔に屈託ない微笑が浮かぶ。
「ごめん。本当に怖がらせるつもりなんかなかったんだ」
 その穏やかな話し方は、もう、いつものユンだ。明姫は心から安堵した。
「ううん、私の方こそ、怖いだなんて失礼だったかもしれない。ごめんなさい」
 素直に謝り、明姫は先刻の話に戻った。
「ユン、私もあなたを好きよ」
 刹那、ユンの顔が嬉しげにほころぶ。
「本当なのか?」
 こくりと、明姫は頷いて見せた。
「まだ、お互いに知っているのは名前だけで、殆ど何も知らないような状態で〝好き〟っていうのも変なのかもしれないけど」
「そんなことはないだろう。誰かを好きになるのに、時間は関係ないのではないか。ひとめ惚れという言葉もある」
 まったくユンという男は、こちらを赤面させるような科白を平然と口にできるらしい。
 これが意図しての女を口説く手練手管なのか、気恥ずかしさを知らない天然のタラシなのかは判らなかったが。
 明姫の白い頬に朱が散った。