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何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌【ラメント】Ⅱ

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 明姫はユンが待ち合わせ場所に指定した殿舎の前に立ち、周囲を落ち着きなく見回した。ここは後宮の外れに位置する。また住む人もおらぬ今は、昼間でも滅多に近くを通る人はいなかった。
 更に、この殿舎にはいわくがある。先代の王の側妃の一人がここに暮らしていたのだが、自ら自害したと伝えられているのだ。
 その妃は国王の寵愛も厚かったが、低い家門の出身で後ろ盾となる後見人もいなかった。力のある後見がいないというのは、後宮の妃たちの勢力図にそのまま影響する。つまり、錚々たる後ろ盾のある妃たちの間で、肩身の狭い想いをするということだ。
 自害して果てた当時、妃は身籠もっていた王の御子を流産した直後であったことから、死を選んだ動機はそれゆえだろうと憶測された。ただ、その頃、妃の許に幼い世子が頻繁に出入りしていたという。まだ七歳ほどの幼い少年であった世子は生母である王妃よりも、この寡黙で儚げな妃を母のように慕っていた。
 そのため、王妃が
―あの妃は我が幼き王子を誑かしている。世子を手なずけて味方にしようとしているのだ。
 とノイローゼ状態になったことあるほどだったとか。
 もちろん、成人した王子ならばともかく、わずか七歳の幼子が妃の許に出入りしたからといって、国王もそれを咎めだてするはずもかった。
 が、王妃の妃に対する風当たりは次第に強くなり、ついに妃が王の何人目かの御子を懐妊したと判るに至って、妃を呼びつけて鞭打つという事態にまで発展した。
 たとえ王妃といえども、国王の御子を宿した側室を鞭打つのは許されることではない。国王は王妃のあまりの嫉妬深さを嫌悪し、その心はますます妻から遠のいた。
 そんな酷い所業が許されたのも、王妃が時の朝廷で重きをなす左議政ペク・ヨンスの実妹だったからだといわれている。果たして鞭打たれたのが原因かどうかは判らないが、妃はその事件後、ショックで寝込みがちになり、一ヶ月後に流産した。彼女が自ら殿舎の梁に紐をかけて首をつったのは流産後まもなくのことだった―。
 その酷い事件が起こってから、既に十数年を経ている。が、今もなお、この殿舎の梁には首をつった当時の妃の身体がぶら下がっているとか、それを実際に見た者がいるという怪異話が尽きない。
 広大な宮殿には、幾多の政変で無念の死を遂げたあまたの怨霊たちが彷徨っているといわれる。彼等はしばしば、その姿を生きている者に見せ畏怖されるが、大抵の場合、怨霊を見たというのは、見回りの内官が寝ぼけていたりして夢幻を見るのだ。
 この殿舎に住んでいた妃を鞭打った王妃というのが、即ち今の大妃、現国王の生母である。
 明姫はそういった類の怪談は正直、あまり興味もないし半信半疑といったところだ。頭から否定する気もないけれど、どこまでが真実か知れたものではないとも思う。
 そんな彼女であっても、流石にいわくつきの件(くだん)の殿舎を夜更けに訪れるというのは、あまり気持ちの良いものではない。たとえ、その中に先王の寵妃の亡霊ではなく、恋しい男が待っていたとしても。
 そんな明姫だったが、殿舎の前のささやかな庭園に、一杯の桜草が群れ咲いているのを見たときには歓声を上げた。
「もしかして、ユンが桜草を摘んできたのは、ここから?」
 呟き、引き寄せられるように桜草畑に近づいてゆく。夜目にも薄紅色の可憐な花がひっそりと浮き上がって見える。
 と、どこからか夜の深いしじまを縫うように、ひそやかな声が聞こえてきた。
「これは泣き声?」
 明姫は凍り付いた。じっと耳を傾けていると、魂を真っ二つに引き裂かれそうなほど哀しげな泣き声は次第に近づいてくる。
「なに―」
 気丈な彼女もその場に立ちすくんだ。逃げようと思っても、脚がその場に縫い止められたように動かない。
「―!!」
 ややあって、明姫は更に驚愕することになる。殿舎の回廊に誰かが佇んでいる。
 初めはユンかと思ったが、それにしては小柄だ。しかもその人物は女人だった。白っぽいチマチョゴリを纏い、ふわふわと漂う影のように回廊に立っている。
 流石に梁からぶら下がってもおらず、息を引き取る直前の苦悶の表情を浮かべてもいなかったが、酷く哀しげな顔で泣いていた。
 まさか、この方は十数年前、ここで無念の死を遂げたというお妃さま?
―吾子(アガ)よ。吾子よ。
 白い着物を着た、たおやかな女人は亡くなった我が子を探し求めて泣いているのだろうか。
 怖くないといえば、嘘になる。でも、明姫は眼前のこの儚げな女人が既にこの世ならぬ人だと判っていても、禍々しいという印象は感じなかった。
―吾子よ。
 女人は細い腕を伸ばし、同じ科白を囁きながら、すすり泣く。その両のかいなは、失った我が子を抱こうとしているのかもしれない。
「お妃さま(マーマ)、何をおっしゃりたいのですか?」
 明姫は懸命に話しかけた。仮に亡霊と呼ばれるものが現世に姿を現すとすれば、それはまだ、この世に未練や執着があるせいだ。ならば、今ここで、亡くなったこの女の言い残したかったこと、伝えたかったことを聞いてあげれば。何かして欲しい望みがあるのなら、叶えてあげれば、晴れて天上の国へと旅立つこともできるのではないだろうか?
―吾子よ、可哀想に。
 妃の黒目がちな瞳から、はらはらっと雫のような涙がころがり落ちた。
 この時、はるか昔に亡くなった妃の亡霊が何を伝えたかったのか。結局、明姫は理解できなかった。
 歴史は繰り返すという。この夜、この妃の亡霊は明姫がやがて辿ることになる運命を既に見ていたのかもしれない。
 明姫が茫然として見上げていると、妃はなおも両腕を伸ばし、差し招くように呼びかける。
―吾子よ、おいでなさい。
 彼女の身体が思わずふらりと前へ進もうとしたその時、殿舎の扉が開いた。
「明姫?」
 明姫は眼を見開き、まだ夢心地の状態で虚ろな視線を動かす。その先―殿舎の真正面の扉が開き、ユンが顔を覗かせていた。
「ユン」
 明姫は短い階を駆け上がり、ユンの腕に飛び込んだ。ユンは最初、愕いたようだったが、やがて躊躇いがちにその腕が明姫を抱きしめた。
「どうした? 何かあったのか」
 優しく顔を覗き込まれても、明姫はまだ華奢な身体を震わせているだけだ。
「遅いから、もう今夜は来てくれないのだろうと思っていたんだ」
 明姫は嫌々をするように小さく首を振った。
「私、私」
「何だ? どうした。そなた、震えているではないか。それに、泣いている!」
 ユンの眼に危険な光が瞬いた。
「そなたは泣かせるのは何者だ? 女官同士の苛めに遭ったのか、それとも、怖い尚宮に叱られたのか? いずれにせよ、明姫を泣かせるヤツは私が許さない」
 断固とした口調で宣言するユンは今にも本当に飛び出していきかねない剣幕だ。
 明姫は首を振った。
「違うの。ユン、違うのよ」
「何が違うんだ?」
「私、見たの」
 明姫は震えながら訴える。
「女の人が今さっき、あそこにいたわ。白い衣装を着て、とても綺麗だけど淋しげな感じのひとだった。その人と私、少しだけ話をしたの」
 ユンが鋭く息を呑む音がしじまに響いた。