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何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌【ラメント】~Ⅰ

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 領議政白勇修(ペク・ヨンス)の養女スリョンは入内後直ちに昭儀(ソイ)の位に任ぜられた。昭儀といえば、正二位、かなり高位の妃である。宮中入りしてから既に三ヶ月、とっくに国王との初夜を終えているべきなのに、いまだに昭儀は清らかなままであった。
「まあ、親孝行の殿下の御事ゆえ、いずれ近い中には大妃さまのおん願いを叶えて、昭儀さまの許にも通われようが。それまでは、できるだけ今回の件は伏せておいた方が良かろうな」
 明日にでも、書庫に行き、表紙の傷み方がどれほどのものか見てみよう。
 崔直宮は疲れを滲ませた声音で言い、片手を振った。
「下がりなさい」
 はい、と、明姫はうなだれたまま崔尚宮の室を辞した。

 二日後の昼下がり、明姫は漢陽(ハニャン)の町中にいた。
―そなたもやたら若い身で狭苦しい宮殿にばかりいては、息が詰まろう。少し息抜きでもしてくるが良い。外の新鮮な空気でも吸えば、また心も変わってお勤めにも精が出よう。再々、あのような愚かな粗相をしてくれては、こちらの身が保たぬゆえな。
 崔尚宮はそう言って、そっと巾着に入った小遣いを渡してくれた。厳しいとはいえ、こういうところは、やはり血の繋がった伯母である。
 町の賑わいはいつもながら、眼を瞠るばかりだ。道の両脇には様々な店が軒を連ね、中には露店もある。蒸したての饅頭の食欲をそそる匂いが流れ、四つ辻で大道芸を披露している旅芸人の一座を囲み、見物人から歓声が上がっている。
 隙を見て鶏肉をかっぱらおうとした幼い子どもが鶏肉屋の主人に捕まり、大目玉を食らっている。キョロキョロといかにも物珍しげに周囲を眺めながら歩いているため、また前方がよく見えていない。
 しまった―と思ったときは遅かった。
 往来を向こうから歩いてきた男とぶつかってしまった。
「申し訳ありません」
 町中なので、外套を頭からすっぽり被って歩いていたのだが、かえって、それが余計に悪目立ちしてしまっていることなど、当人の明姫は気づいていない。当人は目立たない格好をしているつもりなのに、その目立たないはずの格好が逆に人眼をひくというのは、よくあることだ。
 明姫はぶつかった相手に軽く頭を下げ、そのまま行き過ぎようとした。が、ふいに前方を通せんぼされ、唖然として相手を見上げた。
「お嬢さん(アガツシ)、どこの令嬢かは知らないが、生憎とこの服は仕立て下ろしたばかりでな。ほら、たった今、そなたがぶつかったところがこのように汚れておる」
 明姫は眼をこらして見たが、男が指し示した袖の上方には小さな汚れ一つもない。
「先ほどの失礼は丁重にお詫び申し上げました。見たところ、そちらさまのお召しものには目立った汚れはないようです。この上、私に何をお望みなのでしょう?」
 相手の男は両班らしい。年の頃は二十歳前後、黄金の派手なパジチョゴリを着ているが、貧相なニキビ面にはまったく似合っていない。まるで気取り返ったガチョウみたいで、滑稽そのもの。
 それでも、本人は様になっていると粋がっているのだろう。明姫は呆れて男を眺めていたが、堪え切れず吹き出してしまった。
「何がおかしい? 貴様、小娘の癖に両班を馬鹿にするのか?」
 〝来いっ〟といきなり強く手首を掴まれ、引っ張られ、明姫は悲鳴を上げた。
「何をするのですか!」
 手首を掴まれたかと思えば、次は抱き上げられた。
「離して、何をするの、いやっ」
 明姫は渾身の力で暴れる。
「大人しくしろ、どうせ親の眼を盗んで昼日中から伴も連れずに町中をふらつく不良娘だろうが。俺が良いところに連れてってやるからさ」
 男がグイと顔を近づけると、酒臭い饐えた匂いが鼻についた。思わず吐き気がしそうになり、明姫は顔を背けた。
「へえ、結構可愛い顔をしているではないか。これは良い拾い物をしたかもな。なに、服を汚した詫びは、そなたのこの身体で俺を存分に楽しませてくれれば良い」
「何をするのっ、いやっ」
 更に男の顔が近づき、無遠慮な手が伸びてくる。一度も触られたことのない胸を鷲掴みにされ、不覚にも涙が滲んだ。
 周囲には遠巻きに見物人ができているが、皆、両班の放蕩息子に絡まれては一大事と助けてくれようともしない。元々、庶民と両班では、争いごとになっても、どちらが正しいかで勝敗は決まらない。儒教国の朝鮮では、国王を頂点に頂く特権階級である両班の行いこそがすべて正しいとされる。
「誰か―、助けてっ」
 明姫が叫んでも、顔を背けるばかりで、誰も助けてくれようとはしなかった。
 〝可哀想に、好き者の両班に眼をつけられたんだね〟、〝どこかに連れ込まれて、さんざ慰み者にされちまうぞ〟。無責任な囁き声だけが明姫の耳に入ってくる。明姫の心は絶望で染まった。
「ホホウ、やわからい胸だ」
 更に力を込めて乳房を上衣の上から揉まれ、明姫は覚悟を決めた。人気のない場所に連れていかれ、いわれのない辱めを受けるよりは潔くここで舌をかみ切って死のう。
 両班家では、女の子には物心ついたときから常に小刀を持たせる。そして、万が一、辱めをその身に受けることがあれば、小刀で生命を絶つようにと言い聞かされて育つのだ。
 生憎と身体の自由を奪われている今、小刀は使えないけれど、舌をかみ切ることはできる。そう思った、まさにそのときである。
「何をしている!」
 凜とした声音と共に現れたのは、明姫を拘束している男とほぼ同年代に見えた。逆光になっているため、突如として現れた男の貌は定かではない。
「見てのとおりだ。美味しそうな獲物を見つけたので、これから連れて帰るところだ、どうだ、おこぼれが欲しいのなら、貴殿も参れ。俺が十分に愉しんだ後、この娘を好きなようにすれば良い」
「貴様、それでも両班か? そなたのしておることは、町のごろつきと同じだという自覚はあるのか? それに、その娘は見たところ、両班の娘のようではないか」
 男が近づき、明姫の貌を覗き込んだ時、初めて彼が例の―二日前、庭園で出逢った男と同一人物だと気づいた。ハッと息を呑んだ明姫に、男はシッと黙っているように合図する。
「おう、この娘は確かに見憶えがある」
 男は明姫を抱きかかえている両班に向かって勿体ぶった口調で告げた。
「この娘は領議政ペク・ヨンスどのの甥の許嫁だ!」
「そなた、何者なのだ?」
 疑惑のまなざしを向けられても、男はたじろぎもしない。平然とした表情で
「領議政さまの甥御の友人だ。これでも武官の端くれでな」
 と、嘘か本当か判らない科白を口にしている。
「チッ。領議政さまにゆかりの女とは。しかも、甥の許嫁ときては、迂闊に手出しもできぬ。しかし、そなたの申すことは今ひとつ信用できない。本当なのか?」
 と、ますます訝しむ視線を向けられ。
 男は少しも悪びれもせずに頷いた。