何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌【ラメント】~Ⅰ
「嘘だと思うのなら、そなたの父御に訊ねれば良い。そなたの父御は朝廷で礼曹参判(イエジョチャンパン)の要職に就かれる身であろう。私はそなたの父御を知っている。ああ、そう申せば、そなたは兵曹判書の甥でもあったな。そなたの従妹が畏れ多くもこたび、国王殿下の側室として入宮されたというではないか。ここはお祝いを申し上げるべきところであろうが、もし、町中で騒ぎを起こしたと知れれば、折角、殿下のお側に上がられたばかりの従妹君にも無用な迷惑がかかるのでは?」
「―き、貴様ッ」
ニキビ面が顔面蒼白を通り越して、白くなっている。
「悪いことは言わない。ここは大人しく帰られよ。そなたが潔く手を引けば、私も口をつぐんでおるゆえ」
「わ、判った。恩に着る。今の言葉を忘れるなよ」
男は明姫を降ろすと、逃げるように人混みの中に紛れて消えた。
「危ないところだった」
「助かりました、ありがとうございます」
明姫は深々と頭を下げた。
「あの野郎、今度、見かけたら、ただでは済まさない。あいつがそなたの身体をニヤけた貌でいじり回しているのを見たときには、本気で殺してやろうかと思った」
男が握りしめた拳を突き出して見せるが、いまいち、迫力というか緊迫感に欠ける。
「助けて下さったのは嬉しいですけれど、物騒なことをおっしゃるのは止めて下さいね?」
言ってから、眼前で憤怒に震えているらしい男をまじまじと見た。本人は殺気立っていると思い込んでいるらしいが、そんな風にはいっかな見えない。どう見ても育ちの良さが全身から漂い溢れていて、彼と物騒な言葉は全然似合わないのだ。
「せめて殴り倒すくらいにしてください」
と、明姫もまた、負けないくらい剣呑な科白を口にしている。男はしばし唖然として見ていたが、やがて、声を上げて笑った。
「変わったおなごだな、そなたは」
「そうですか? 思ったことを口にしただけですけど。だって、殺すのはまずいけど、アザが残らない程度に殴るのは全然大丈夫ですから」
「やっぱり、変わった女だ」
自分の科白のどこがそんなにおかしいのか判らないが、男は腹を抱えて笑い転げている。
しまいには涙眼になっている男を小首を傾げて見つめ、明姫は言った。
「―っていうか、本当に武官なんですか?」
え、と、男が笑いを止めた。
「何だか、少しも―どころか、まったく、どこから見ても武官には見えないんですけど」
男と束の間、視線が合ったが、その眼が泳ぎ、あらぬ方に向いた。
「そなた、意外に鋭いな」
そっぽを向いたまま言う男に、明姫は肩を竦めて見せる。
「別に私が取り立てて鋭いわけではないと思います。だって、失礼ですが、あなたさまを見ていて、武官だとはどうしても思えないもの」
よくあんな見え透いた嘘が通じたものだ。先刻の放蕩息子はよほど動転していたか、根っからの阿呆かのどちらに相違ない。武芸者は、ひとめ見れば判るものだ。鍛え抜かれた体躯や隙のない身のこなし、どれ一つ取っても、この男に当てはまるそれらしきところはない。
大方、領議政の甥の友人だとか、その他諸々の立て板に水のごとく口にしていたことも嘘八百を並べ立てたにすぎないだろう。
だがと、ここで考える。領議政の甥の云々はともかく、放蕩息子が礼曹参判の息子であり、兵曹判書の甥に当たるというのは満更、嘘ではないようだった。現に、放蕩息子はあの科白を聞いただけで真っ青になり、明姫を放り出して逃げ出したのだから。
「私が武官だと名乗ったのを信じてないな」
ふいに物想いを破られ、明姫は眼をまたたかせた。今度は明姫が笑う番だった。
「説得力がありません」
「それでは学者(ソンビ)だ。どうだ、これなら、信じられるか?」
大真面目な顔で言う男に、明姫は微笑んだ。
「もう、どちらでも良いです。私は別に、あなたの正体を詮索する気はありませんから。役人ではないもの」
「そなたは可愛い顔をしていながら、結構な皮肉屋なのだな」
「私が皮肉屋?」
問い返すと、彼は笑顔で頷く。
「ああ、たいした皮肉屋だ。しかも、面白き女だ。いちいち、ああ言えば、ここ言う。私の知る女は皆、従順な女ばかりだぞ。そなたのようによく喋る女は見たことがない。そなた、両班の息女だろう? 普通、両班の娘は従順であるべきだと躾けられるだろうのに、一体、どのような親御の許で育ったのか」
「私、両親はいません」
その言葉に、男の笑顔がふっと消えた。
「そうなのか? そなたが屈託なく明るいゆえ、私はてっきり―」
悪かったとぽつりと呟く。
「両親は亡くなったんです。もう九年も前のことですから、気にしないで下さい」
淡々と返した明姫を、彼が一瞬、痛ましげに見つめた。
「九年前といえば、そなたはまだ―」
「六歳です」
「そんなに幼いときに二親を亡くしたとは」
男が息を呑んだ。
「それで、女官になったのか?」
「はい。たまたま伯母が女官をしていたものだから、そのつてを頼って見習いとして入りました」
それ以上は話せない。伯母から固く口止めされているし、万が一、領議政の耳に入っては困るからだ。入宮に入るに当たっての身元調査では、明姫は崔尚宮ではなく、知人の姪ということになっている。
むろん、調べる気になれば、すぐに調べられるだろうし、身元は割れるだろう。しかし、用心のため、敢えて氏素性は明かさず偽の身分を使って入宮したのだ。
「そう、か。幼いときからの女官仕事は辛いことも多かったろう」
男は納得したというよりは、明姫が辿った重い過去に軽い衝撃を受けたようである。
二人はいつしか都でもいちばんの目抜き通りに来ていた。
「いらっしゃーい。いらっしゃーい」
そこここの露店から声が飛んでくる。
「そこのお兄さん、お連れさんに一つ、どうですか? うちの店では、本物の玉(ぎよく)を扱ってるよ。隣のように偽物じゃないからね」
「何だとォ。誰の店のが偽物だって?」
すわ喧嘩かと険悪になりかけた二つの露店はどちらも同じ小間物売りだ。店先に並べている細々とした品は似たり寄ったりで、正直、どちらも本物の玉を使っているかどうかなんて怪しいものである。
明姫と肩を並べて歩いていた男の歩みがつと止まった。
「おいおい、二人とも折角隣り合って店を出しているのだから、喧嘩は止めろ」
男はふんふんと頷きながら二つの店の露台を交互に眺め、やがて、振り返った。
「どうだ? 何か欲しいものがあれば買ってあげよう」
明姫はきょとんとし、更に烈しく首を振る。
「要りません。私は別に簪にもノリゲにも興味はないし、特に欲しいものなんて」
言いかける明姫に、男は〝つまらんな〟と首を振る。かと思いきや、前を向いて、それぞれの店からノリゲと簪を適当に選んだ。
「これなら対になりそうだ」
「旦那さま(ナーリ)、流石にお目が高い。その玉は灰簾石(タンザナイト)といって、滅多にない貴重な玉でできてるんでさ。この都中を探したって、なかなか手に入らない逸品ですぜ」
「儂の店のそのノリゲも玉は灰簾石ですよ、旦那」
作品名:何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌【ラメント】~Ⅰ 作家名:東 めぐみ