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何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌【ラメント】~Ⅰ

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 男が破顔する。刹那、明姫の胸の鼓動が速くなった。ずば抜けて背が高い男だが、どう見ても逞しいとか精悍という言葉は似合いそうにもない。いかにも苦労知らずに育った両班のお坊ちゃんといった雰囲気である。
 笑った表情は屈託なく、人好きのする明るいものだ。間近で見ると、かなり整った顔立ちをしている。
 膚の色といえば、正直、明姫よりも男の方が白そうだ―、認めるのは若い娘として悔しいが。この男ほど白くて綺麗な膚をしていれば、白粉の世話になどならなくて済みそうではある。と、いささか普段から小麦色の膚を気にしている明姫は考えた。
「本当にごめんなさい。私の方も前が見えていなかったものだから」
 改めて見ると、地面にはまだ数本、桜草が残っている。しかし、いずれも折れたり、花が落ちたりして、到底使い物になりそうにはならなかった。
「もしかして、どなたかに差し上げるつもりだったとか?」
 余計な詮索かと思ったが、訊かずにはいられなかった。若い男が籠一杯の花を贈る相手といえば、女に決まっている。それくらいは、男女の事に関しては疎いと女官仲間たちから呆れられている明姫にだって想像がつくというものである。
「あ。ああ、まあな」
 男は曖昧な笑みで頷いた。先刻のからりと晴れた笑顔とは違う。
 明姫の心がチクリと痛んだ。この男が誰か別の女に籠一杯の桜草を贈っている場面を想像すると、何となく面白くない。
 馬鹿ね、私にはそんなことを思う権利も資格もないっていうのに。
 明姫は自分で自分を嗤うと、黙って地面に残っていた数本の桜草を拾った。
「これはもう使えないわよね」
 残念そうに眺めていたかと思うと、微笑んだ。
「まだ花のついているものは部屋に持って帰って、水に挿してみるわ。もしかしたら、まだ何日かは眼を楽しませてくれるかもしれないし」
 男が愕いたように眼を見開いた。
「持って帰って活けるというのか、その花を?」
 明姫は当然だというように頷いた。
「ええ。だって、まだ綺麗に咲いているものもあるのに。このまま棄ててしまうのは可哀想でしょ。茎の折れた部分はきれいに取って、水に挿してあげれば、きっと大丈夫よ」
「なるほど」
 男は感心したように言った。
「でも、花の取れてしまったものは、これはどうしようもないわね」
 明姫は、花の落ちたものを残念そうに見つめた。可哀想だが、この何本かは棄てなければならないだろう。
 と、何を思ったか、男がしゃがみ込んで、足許に落ちていた花を拾い上げた。次の瞬間、男はスと手を伸ばして明姫の艶やかな漆黒の髪に触れた。成人前の明姫はまだ長い髪を一つに編んで垂らしている。女官は皆、同じお仕着せを着ることになっているが、飾りもない簡素なチマチョゴリで、髪型も編んだ髪が邪魔にならないようにくるっと纏めて髪飾りを結んだだけである。
 男の手が明姫の髪に触れたのはあまりに一瞬のことだっため、明姫は声を出す暇もなかった。
「ほら、こうすれば、花も歓ぶ」
 男の声が存外に近くに聞こえ、明姫は狼狽えて顔を上げた。
「あ―」
 そっと今し方、彼に触れられた箇所に触ると、やわらかな花の感触が確かにある。男は落ちた花を拾い、明姫の髪に飾ったのだ。
「心優しいそなたには、愛らしい桜草がよく似合う」
 明姫の頬が染まった。こういう褒め言葉にまったく不慣れなのだ。大体、宮廷女官は若い男とまともに接する機会は殆どない。内官(ネガン)と呼ばれる若い宦官は後宮を初め、宮殿内を自由に行き来できたから、内官と接する機会はあったけれど、彼等は既に去勢しており男であって男ではない。
 原則として、後宮に仕える女官はすべて国王の所有という大前提であった。つまり、女官といえば、下の水くみであろうと国王の眼に止まれば、側妾となり国王の子を産めるという可能性があったのだ。
 とはいえ、最下級の水くみが国王の眼に触れるという機会そのものが稀有なものではあったが。なので、国王の女である女官は一生涯、結婚はしない―というより、できない。
 生涯を宮殿で暮らし、たまの宿下がりは許されるものの、重い病気になるか死ぬかしない限り、生きて宮殿を出られることはない。それは上級の女官になればなるほど顕著で、特に女官を統率する尚宮ともなれば、生涯結婚はしなかった。
 それでも、年若い女官たちは若い内官の噂をしては盛り上がる。内官と女官の恋愛はこれも規則としては禁止だけれど、尚宮たちは見て見ないふりをしていた。まだ花の盛りの彼女たちがせめて内官と疑似恋愛を愉しむのまでを取り締まるつもりはなかったのだ。
 が、稀に去勢した宦官でも、途中で男性機能が回復することもある。そういう場合は、相手の女官が妊娠するという騒動にもなり、現実として後宮でもそういった事件が過去に何度か起きていた。そんな場合は、内官・女官とも厳しく罰せられ、大概は死をもって罪を償うことになる。女官の恋愛はそれほどまでに厳しく制限される。
 そこはやはり、女官が国王のものであるという考え方が根底にあったからだろう。
 恋愛がご法度だからといって、すべての女官が奥手とは限らない。むしろ、制限されればされるほど、彼女たちの好奇心は高まり、その手の話になると遠慮なく盛り上がるのは常だった。そんな中で、明姫はいつも友達から〝奥手の明姫〟と呼ばれて、からかわれている。
「それでは、これで」
 男は人懐っこい笑みを浮かべると、まだ頬を染めている明姫を残し、去っていった。桜草が入っている籠を後生大切そうに抱えて。
 一体、あの花籠を贈るのは、どんな女性?
 きっと、自分のように身寄りもない、実家が絶えたも同然の娘ではなく、きちんとした両班家の娘に違いない。また明姫の胸がツキリと痛んだ。
 
 その夜、明姫は崔尚宮に昼間の失敗を報告した。色々と考えた末、やはり正直に話した方が良いと判断したのである。
 崔尚宮はすべての話を聞き終えた後、あからさまに溜息をついた。
「よりにもよって、王室の歴史書の表紙を破るとは、大変なことをしでかしたな」
「申し訳ありません。私の不注意です」
 深々と頭を下げるのに、崔尚宮はまた吐息をついた。
「そのようなこと、いちいち言わずとも判っておる」
 更に、何度目とも知れぬ溜息をつき、声を低めた。
「とにかく、この件は他言せぬよう。大妃さまは今、何かとお心穏やかならぬ毎日なのだ。そんな時、大切な書物を破ったなどと知れれば、どれほどお怒りになるか、考えただけでも怖ろしい」
 一人前の女官とはいえ、まだまだ若く下っ端にすぎない明姫は、大妃の前に出ることはない。崔尚宮も一応、大妃付きとはいっても、直属の上司朴(パク)尚宮が大妃に側近くに仕える身であり、彼女自身はその上司の背後に控える立場にすぎないのだ。
 ここのところ、大妃は苛立っていることが多い。というのも、一人息子である国王が新しい側室に寄りつきもしないせいである。その側室というのはもちろん、大妃の兄領議政から強く推してくれと懇願された養女であった。
「そなたも存じてはおろうが、例の新しいご側室の許に国王殿下が通われぬせいで、元々、感情の起伏の烈しいご気性が更に烈しさを増しておいでだ」