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何度でも、あなたに恋をする~後宮悲歌【ラメント】~Ⅰ

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 いや、むしろ、父があんな亡くなり方をしたからこそ、伯母の配慮で身を守るために宮中に入った。何事もなく平穏に過ぎていれば、今頃はもう、どこかの釣り合いの取れる両班家に嫁いでいたかもしれず、一生、宮殿など縁のないところだったろう。
 そうして、平凡な男の妻となり、子の何人かでも生み、やはり平凡な一生を送ったに違いない。明姫はそれが嫌だとも思わないし、ささやかな幸せを手に入れられなかったからといって残念だと思ったこともない。
 九年前のあの夜を境に、明姫は、あらゆるものに対しての執着を失った。例えば、何が欲しいとか、ああしたい、こうしたいとかいう望みを抱くことがなくなってしまったのだ。何かを望み執着すれば、それを大切に思う心が芽生える。だが、その大切なものを失った時、人はどうすれば良いのだろう。
 父を、母を、弟をすべてを一瞬で失った明姫には、大切な存在を持つということが酷く怖ろしく思えた。失って絶望に沈むよりは、最初から大切なものを持たねば良い。それが左議政にすべてを奪われた少女の辿り着いた哀しい諦観であった。
 自分はこのまま女官として生きても良い。家門の復興は無理に婿を取って子を儲けずとも、いずれ養女でも迎えれば済むことなのだから。それに、結婚すれば、やはり良人や我が子が何より大切な存在になる。そうやって大切な存在を作ることに大きな憧れはあるけれど、それ以上に、それらをある日突然、理不尽に奪われたとしたら、その痛みの方がはるかに怖ろしい。
 ならば、いっそのこと、生涯〝家族〟を持たず、誰とも深い関わりを持たずに過ごせば良いのではないかとしか考えられなかった。伯母のように女官として生涯を国王に忠誠を捧げて生き抜くのも悪くはない。
 小柄な明姫は山のような書物を抱えていると、前方が見えない。今もよろよろとしながら庭を歩いている。ゆえに、向こうから誰かが走ってくるのはもちろん視界に入っていなかった。
 当然ながら、息せき切って走ってきたその人物と彼女はまともに衝突する羽目になる。
 誰かとぶつかった衝撃で、明姫は思いきり後方にはじき飛ばされた。
「い、痛」
 みっともなく尻餅をつき、腰を地面にこれでもかというほど打ちつけてしまった。
「うっ、痛―」
 向こうでも同じようなうめき声が上がっている。先に立ち直ったのは、相手の方が早かったようである。
「済まぬ! 大丈夫か?」
 明姫は首を振った。
「はあ、私はたいしたことはありませんが、あなたの方こそ」
 そこでハッとして、明姫は大いに狼狽えた、
「大変、書物が」
 大切な書物を包んだ風呂敷が解け、本が辺りに散乱している。明姫は狂ったように我を忘れて本を拾い集めた。確か書庫から借りてきたのは五冊だったはず。
「一冊、足りないわ」
 泣きそうになって、そこら中を探し回っていると、一緒になって探してくれていた若い男が無造作に差し出した。
「そなたが探しているものは、これではないか?」
「あ、それです、その本」
 明姫は彼から奪い取るように本を受け取り、胸に抱いた。
「向こうの牡丹の茂みに落ちていたぞ」
 男が振り返って、指さした。先刻、明姫が蝶に見とれていた場所である。
 しばらく本を胸にかき抱いていた明姫がまたしても情けない声を出した。
「や、破れてる―」
 よくよく見ると、表紙は土で汚れている。まあ、それは払い落とせば殆ど目立たなくなるものの、肝心なのは表紙の一部が少し破れてしまったことだ。
「どうしよう、大切な本なのに」
 明姫は涙声になった。
「どれどれ、貸してごらん」
 男は明姫から本を取り上げ、しげしげと眺めている。
「この程度なら、そなたが黙っていれば判らない」
 明姫はキッと相手を睨んだ。
「それで済めば良いけど、もし、バレたらどうするの? 私は下手をすれば、これものよ」
 と、片手で自分の首を押さえた。
「まさか、書物の表紙を判るか判らない程度に破いただけで、処刑されると?」
 男が眼を丸くする。蒼色の官吏服を着ているところを見ると、中級官吏のようである。朝廷の官吏は皆、位階によって纏う朝服の色が異なっている。大臣クラスは赤、次が蒼となる。
「そりゃ、あなたにとっては所詮、他人事でしょうけど、私にとっては生死に関わる大問題なんだから」
 明姫はきついまなざしを若者にくれ、溜息をついた。
「どうしよう。まさか処刑はないと思うけど、また鞭で叩かれるのは間違いないわね。いや、もしかして、処刑もあり得るのではないかしら」
 一人で蒼くなっている明姫を見て、男が小首を傾げた。
「そんなに大切な本なのか?」
 明姫は呆れたように鼻を鳴らす。
「あなた、一体、どこに眼をつけているの? さっき、あなたも本の題名を見たでしょう。これは王室の歴史を綴った大切なものなの! 太祖大王から今の国王殿下までの歴史がこの中に余すところなく書かれていて―」
「それはよく判ったが、そなたはこれをどうするつもりだったのだ?」
 熱弁をふるおうとしていたのを遮られ、明姫は鼻白んだ。
「大妃さまが今日は、おん自ら新しいご側室に講義をなさるのよ。連綿と続いてきた王室の歴史をご側室にお教えなさるの」
「まったく母上さま(オバママ)も伯父上も諦めが悪いな」
 男の呟きは低く、明姫には聞こえない。彼は頷くと、いとも気安く請け負った。
「その件ならば、私が国王殿下(チュサンチョナー)にお願いしておこう」
「え?」
 明姫は訝しげに眼前の男を見た。どう見ても、国王の側近くに仕えるような役職についているようには見えない。大体、国王が臨席しての朝議に出席する資格があるのかどうかも疑わしい。
「それはありがたいけど、あなたは国王殿下に直接お逢いできる立場なの?」
 男は少し得意げに鼻をひくつかせた。
「こう見えても、私は殿下のご信頼も厚い忠臣なのだぞ? 殿下も私の進言であれば真摯に耳を傾けて下されるだろう」
「ふうん? そうなの」
 どこまでも信憑性に乏しい話ではあったが、この場は嘘八百でも信じたい気分だ。
 流石に表紙のわずかな破損くらいで処刑はないと思うが、やはり見つかれば、鞭打ちは免れないだろう。ここは見つかる前に、崔直宮に報告しておいた方が賢明だろうか。
 明姫があれこれと頭を悩ませている前で、男もまた地面に這いつくばって何やら拾い集めている。
「何をしているの?」
 声をかけると、すぐに返事が返ってきた。
「見てのとおりだ。私も拾いものをしている」
 そのひとことで、明姫は初めて知った。ぶつかった弾みで荷物を落としてしまったのは何も自分だけではないようである。男が拾い集めているのは、地面いっぱいに散らばった桜草であった。傍らに忘れ去られたように、ぽつねんと籠が転がっている。この籠に桜草を入れて運んでいる最中だった?
「桜草?」
 今度は返事はない。男はただ黙って花を拾い集めては籠に戻す作業を繰り返していた。
 明姫は唇を噛みしめ、うなだれた。
「ごめんなさい、私ったら、自分のことしか考えられなくて」
 彼女は急いで自分も桜草を拾い始めた。
 男がちらりと明姫を見て、また桜草を拾い続ける。
「そなたのお陰で殆ど元どおりになった」