小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

一縷の望(秦氏遣唐使物語)

INDEX|98ページ/127ページ|

次のページ前のページ
 

 三年後大学寮の明経科(今の行政科)に入って、当初の目的であった仏門修行を捨てて高級官吏を目指していたのです。しかしある日、真魚様の元に訪ねてきた名も告げぬ僧侶(実は勤操法師)が、虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)会得の修業の仕方をお示しになり、以来その習得に夢中になる内に、大学で学んでいることがひどく空虚のものと思えてきてしまって、また当初の目標である仏門修行もしたくなって退学を決意したのでした。そしてそれを引きとめるであろう周囲の者に対して「聾瞽指帰(ろうごしいき)」と云う物語を書いて、着のみ着のままでとうとう出奔されてしまわれたのです。ところで、その「聾瞽指帰」と云う本は一種の戯曲を通して仏教・儒教・道教のどれが優れているかを示し、その結論は仏教と云う比較思想論なのでした。その戯曲の結末通り仏教(密教)への道を付き進み始めた真魚様は、延暦十二(西暦七九三)年、御厨人窟(みくろど)(今の高知県室戸市)で山林修行をして先程の技の習得に熱中したり、それに飽きると近くの最御埼(ほつみさき)(室戸岬(むろとみさき))に立ってそこから広がる空と穏やかな海ばかりの景色を見たりしておりました。この技は密教の修法(じゅほう)の一つで、人の記憶力を飛躍的に伸ばすものでありましたが、実はこれをどうしても習得しておく必要が真魚様にはあったのです。それは、「漢音習得の義務」の為でした。「漢音習得の義務」とは朝廷の命で、今まで習ってきた経典を全て唐の発音で言える様にしなくてはならないと云うものです。真魚様は天分の才はありましたが、今まで習ったものを全て唐の言葉で言い直すこと等、とても時間が足りませんでした。そこで、驚異的な暗記力が必要だった訳です。身につけるのに随分苦労致しましたが、法相宗の秦氏護命法師様(元厳寺)を勤操法師様に紹介され、その指導の元何とか習得することが出来たのでした。この様にちょうどその修法の習得も終わった所だったので、勤操法師様からの不破内親王討伐隊参加のお誘いも、快く引き受けてくれたのです。
 ところで真魚様が栄達の道を見限り、儒教を教える大学を退学されたもう一つの密かな理由が有りました。それは儒教の教える禁欲の教えに対し、人一倍精力の旺盛だった真魚様は、実は儒教の主張する禁欲にどうしても馴染めず、それもあってお供の隼麻呂も置いて一人当てどなく出奔してしまったのです。しかし仏教においても情欲を肯定していた訳でも無く、若い真魚様は自らの内なる欲望をどう制御すれば良いのか分らぬまま彷徨っておりました。
 そんな旅の折、丹後国与佐郷に立ち寄ったことがありました。ちょうど雨も降ってきて野宿も適わず、そこにあった「籠(この)神社」に乞食の様な格好で一夜の宿を頼んだのです。ここは物部氏縁の神社で、宮司は秦氏に繋がる物部の者だったのです。これは偶然か、はたまたこの物部の血が真魚様を呼んだのでしょうか。よってここは丹後一宮でかなり格式有る神社でしたが、対応してくれた若き宮司の海部直雄(あまべのあたいお)豊(とよ)様とその妹君の藻(みくず)様は快く一夜の宿を貸してくれ、お湯で身を清め、新しい衣服を与えてくれた上、食事とお神酒まで振る舞ってくれたのでした。久しぶりの温かい持て成しに心が緩み、藻様の注いでくれるお神酒の力も相俟(あいま)って、真魚様は海部様に自分が何を悩んで放浪しているのか、包み隠さず話してしまったのでした。この時、蝋燭の火に照らされてぼんやりと藻様の影が映し出され、それが九つの尾を持った狐のものであった筈なのですが、酔っていた真魚様はお気付きになれなかったので御座いましょう。
 その内慣れぬ神酒に酔って眠ってしまったのか、気が付くと本殿に敷かれた布団の中でした。目を開けて身体を動かそうとすると、自分が誰かに絡みつかれていることにすぐ気が付き、目の前には妹君の藻様の顔があったのでした。真魚様は驚いて布団から飛び起きると、傍らの藻様は暗闇でも眩しい全裸でありました。真魚様は慌てて布団を藻様の身体に被せてこう仰ったのです。
「みっみっみっ藻様、一体どうなさったのです。」
 藻様は真魚様をまっすぐに見つめながらゆっくりと起き上がり、こう答えました。
「真魚様、お起きになられましたか。先程の酒席でのお話、全て聞かせて頂きました。失礼ながら、真魚様は未だ女(おなご)の肌を御存じないと推察致します。その様なまだ知りもしないものにお悩みならば、まずはそれを知るのが先決かと思われまする。」
「しっしかし、私はやり方も何も知らぬぞ。」
「宜しゅう御座います。最初は皆そういうもので御座います。藻が全て心得ておりますので、ここは全て藻にお任せになられるのが肝要かと思われます。」
「わっ分った。全てそなたに任せれば良いのだな。」
「左様で御座います。もそっと力をお抜きになられて。」
 この様な訳で得度する前の真魚様は、この藻と言う女と一夜を共にしたのでした。誰でも男は最初は思うことなのですが、事が終わった後に真魚様はひどい罪悪感に悩まされ、わざわざ大安寺まで戻ってきて、このことを勤操法師様に相談したのでした。
「勤操法師様、私はどうしたら良いのでしょう。あれ以来寝ても覚めても藻の身体のことが思い起こされ、せっかくの虚空蔵求聞持法会得の修行に身が入らぬのです。これでは碌な者になりそうにありません。やはり儒教は正しかったのでしょうか。」
 すると勤操法師様は、仏教の一つである密教について語ったのです。
「真魚様、真魚様程のお年頃の健康な男(おのこ)が、その様な煩悩に悩まされるのはむしろ当然のことで御座います。仏教の中の密教には理趣経と云うものが有りまして、そこではそれを否定などしておりません。」
 その言葉に、真魚様は目から鱗の落ちる様な思いをされたのでした。
「それは、ほ、本当ですか?」
「左様、私の言葉を信じ、共に神仏習合の雑密(ぞうみつ)(密教の一部)を習う気になられたら、拙僧がその情欲を抑える術を授けましょう。それは理趣経の一部に過ぎませぬが、本当の理趣経の全てを学びたいなら、唐へ行かなくてはなりません。」
「分りました。まずは雑密を勤操様から習い、さらに虚空蔵求聞持法を会得して漢音習得を成し遂げ、さらに唐を目指しましょう。」
 こうして真魚様は煩悩を抑える修行を終え、勤操法師様に誘われるままここにいらしたのでした。
 さて話を不破内親王討伐の時に戻しますと、参加していた最澄様はやる気のなさそうな顔をしながら黄昏時の暗い道を歩いて一行の後を付いておりましたが、たまりかねて背の高い実忠法師様を見上げながらこう尋ねられたのでした。
「先(せん)達(だつ)(先輩僧)、拙僧が秦氏と関係の深い亡き藤原小黒麻呂様や葛野麻呂様と縁続きであったことは分りましたが、こんな化け物退治に本当に参加せねばならぬのですか。そもそも本当に化け物を見せてくれるのですか、それが事実だとしたら危なくはないのですか。だいたい先に拙僧を誘われた御師様(行表法師)は何故居られないので御座いましょう?」
 実忠法師様は黒い顔で暗闇に両目ばかりが目立った状態で、こうお答えになりました。