一縷の望(秦氏遣唐使物語)
考えてみれば、蝦夷の中央政府からの支配に対する反乱は、我ら秦氏の平等の追及と相通ずるものがありました。たまたま我らは、中央の政(まつりごと)や仏教を動かしてそう言う世を作ろうとしていて、図らずも蝦夷の反乱とぶつかり合う羽目となってしまったと言えるのかもしれません。蝦夷が秦氏の一族であることを考え合わせると、これは、度々この物語で問題にして来た秦氏同士の対立の構図の一つの事例とも申せましょう。ここに来て、取りあえず蝦夷が討伐されたことによって、中央の秦氏と地方のそれの争いは、藤原の血を引く最澄様とそれを支持する桓武帝や安殿親王(あてのみこ)などの勢力と、蝦夷の血を引く空海様とそれを支持する神野親王等の勢力との新たなる局面を迎えたのだと言えるのです。
その後田村麻呂様は続いて「造志波城使(ぞうしわじょうし)」に任じられ、胆沢から百六十二里(六四八キロ)離れた所に築城することとなったのでした。その一方軍事行動もなされ、延暦二三年正月、征夷大将軍坂上田村麻呂様を指揮官に、副将軍に道嶋御楯(みたて)様、百済教雲(くだらきょううん)様、佐伯社屋(やしろや)様、従者の三諸綿麻呂様を引き連れて、再び陸奥に遠征を行なったのであります。阿弖流為様と母礼様を処刑したことと、新しい城を造ったことが蝦夷達を刺激したのでした。しかし、田村麻呂様達の努力が徐々に効果を表し、この年の十一月、秋田城周辺の統治が軍政から現地の民間のものと変わっていき、これは都の支配が広がり、平和が広まったことを意味するのでした。
とは言うものの、田村麻呂様は延暦二四年参議となり、東北の治世から離れて中央政府へと参画なされていくのでした。中央政府では、陛下(桓武天皇)に親子二代に渡って娘を入内させるなど、その後も平城、嵯峨と三代に渡って寵愛されるのです。また田村麻呂様の姉である又子様と陛下の間の娘は、後に嵯峨天皇の元に入内されるのでした。そして東北統治の役職も式家藤原緒嗣(おつぐ)様(百川の子、母は良継の娘)に代わり、陸奥方面の軍事的役職も譲り、やがてはせっかくの平和の日々も後退し、再び陸奥は戦乱に巻き込まれていくのです。
因みに田村麻呂様と共に都へ帰還した三諸綿麻呂様は、文室(ふんや)と改姓されのでした。桓武天皇陛下は帰還した翌年亡くなられ、新陛下(平城天皇)に綿麻呂様はその若さ故田村麻呂様より気に入られ、その側近に取り立てられるのでした。
第六章 不破内親王の最期
阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)の仏達 我が立つ杣(そま)に冥加(みょうが)あらせたまえ(最澄作 新古今和歌集所収)
この歌は最澄様の作ですが、意味は、「アノクタラサンミャクサンボダイみ仏達よ 精魂込めて願い奉る。私の立つこの比叡の杣山(材木にする為の木を植えてある山)に広大無辺の加護あらせたまえ。」であります。これから語るお話の為に書かれた訳ではありませんが、いかにもそれらしい内容の作であります。
平安遷都が行われた延暦十三(西暦七九四)年十月二二日の直前の七月一日、平安京造
営太夫の私の祖父藤原小黒麻呂が病から身罷ったのであります。病を得た時、陛下(桓武天皇)はその身を安じなさり、聖武天皇の遺品を集めた正倉院の雑薬をお与えになったのですが、その甲斐も無かったのでした。病を得た時点で造営大夫の職は、祖父小黒麻呂の婿の和気清麻呂様がお継ぎになったのです。清麻呂様はこの時、以前宇佐八幡で八幡神と約束した寺をようやく建立したばかりの時でした。この神護寺は、清麻呂様が失脚させた道鏡法師の怨霊を防ぐ意味も有ったのです。尚清麻呂様の死後は、息子である私の父葛野麻呂が若くして造営使となり、薬子様がかつて囁いた様に祖父小黒麻呂の仕事を引き継いだのでした。
この様に忙しかったこともあり、それと不破内親王はお許しが出て、延暦十四(西暦七九五)年十二月十二日、淡路から和泉国へと移されたこともあって、怨霊退散の計画は延び延びとなっていたのでありました。ですが実はこれは許されたのでは無く、早良親王の怨念の力と不破内親王の力を分散する為に、父葛野麻呂と和気清麻呂様が手を回して実現させたことであったのです。しかし、早良親王の怨霊退散に関してはこの年の前の延暦十一(七九一)年六月、一向にご病状が良くならない安殿(あて)親王様を陰陽頭(かしら)の藤原刷雄(よしお)様が占い、
「これは弟君早良親王の祟りに御座います。親王の怒りを鎮める以外、親王様の病状は良くなりませぬ。」
と刷雄様は卦を出し、怨霊退治を一刻の猶予もならぬ事態であるかの様に仕向けたのです。
不破内親王討伐の顔触れは、当初は不参加の積りでしたが、場所が淡路から和泉に変わったことで参加を決意された実忠和尚様、その実忠和尚様が連れて来た最澄様と山背改め山城国の秦忌寸(いみき)刀自女(とじめ)ら尼三一名、勤操(ごんそう)法師様、かの法師が連れて来た真魚様と秦隼(はや)麻呂でした。刀自女は二十年に及ぶ行を終えられた疲れも見せず、また中年をとうに過ぎておりましたが、少女に様に初々しい方でありました。
この討伐隊に誘われた時、最澄様は相変わらず比叡山で山林修行の最中でありましたが、あれからの真魚様の行動を辿ると、元服を済ませて十五の時讃岐を出て、大学寮に入る為、伊予親王様の侍講(家庭教師)でもあった阿刀大足様のいる奈良の田村第を訪ねたのでした。田村第と言えば、亡き恵美押勝と考謙天皇陛下の活躍した歴史の舞台だった所ですが、今は伊予親王様とその一家である藤原南家の方々が住んでいらっしゃいます。まずは南家の重臣右大臣(藤原是公(これきみ))様、その娘で伊予親王様の母親の吉子様がいらっしゃり、真魚様はその屋敷で一つ上の伊予親王様の御学友として、阿刀大足様に儒学を中心に学問を習っていたのでした。是公様は、いかにも頭の良さそうな上品で控え目な方で、吉子様はどこか光明皇后陛下を思い起こさせる様な、理性的な美しい方であります。その息子である伊予内親王様は真魚様より一つ年上で、容姿端麗で文武両道に優れ、気持ちも強い方で有りました。後にこの家の方々が悲劇に見舞われようとは、この時は考えもしない真魚様なのです。またこの時二年程、本家である京の佐伯家(実は血のつながりは無いが、この時讃岐の真魚の父である佐伯直田公善通が「佐伯」と云う苗字だけを頼りに積極的にこの京の佐伯家に真魚の援助を阿刀大足を通じて頼み込んでいた)の総領佐伯今毛人様とも、真魚様がその方の作られた佐伯院に通っていたので、顔見知りであったのでした。
作品名:一縷の望(秦氏遣唐使物語) 作家名:斎藤豊