一縷の望(秦氏遣唐使物語)
延暦十五(西暦七九六)年正月論功行賞が行われ、田村麻呂様には陸奥出羽按擦使(あんさつし)(複数の国司の代表)となると共に、陸奥守・鎮守将軍をも兼ね、翌年十一月には征夷大将軍
にも任ぜられるのでした。皇族以外の者のこの起用は田村麻呂様が初めてなのです。
延暦二〇(西暦八〇一)年二月十四日、平安京への遷都も一息付いて再び戦の準備が始められ、今回の兵は総勢四万でありました。これは前回の十万に比べ少ない様に思われますが、精鋭を選りすぐったので前回に遜色無き戦力となっていたのです。翌延暦二一年秋、田村麻呂様は鈴鹿御前様や三諸綿麻呂様を連れて再び出兵し、まずは胆沢へ赴いて城を造営し出したのでした。すると前回の戦いの終わりと共にどこかへ消えていた行叡居士様の代わりに、今度は賢心法師様が工事現場に現れ、こう仰ったのでした。
「拙僧の夢枕に行叡居士様が再びお立ちになり、今度は私自身が田村麻呂様の力になる
ようにお告げがありました。行叡居士様程お力になれるかどうかは分りませぬが、全身全霊を掛けて務める積りですので、宜しくお願い致します。」
実は前回の戦いが終わって都に帰還した時、戦の疲れが出たのか床に臥すことが多くなった行叡居士こと行表法師様は、伏したまま念を送って賢心法師様の夢に現れ、田村麻呂様の今後を託されたのでした。
工事開始後四カ月が経って城もだいぶ出来上がった所で、鈴鹿御前様は阿弖流為様達の
気持を読み、すっかり立派な白頭で茶色い羽根の狗鷲に成長した『今生』を肩に乗せた田村麻呂様に、次の様な御助言をされたのです。
「田村麻呂様、私が占った所、敵将阿弖流為はこの城の威容に恐れを抱き、民の為に降伏の機会を探っている様で御座います。ここは降伏勧告の文(ふみ)をお出しになってみてはいかがでしょうか。」
「そうか、それではやってみるか。賢心様、使者に立って下さらんか。僧ならば、奴等も手荒なことはすまい。」
と挂甲(身分の高い者の当時の鎧)姿の田村麻呂様は答え、さっそく次の様な降伏勧告の文を書き、賢心法師様に持たせて使者として赴かせたのでした。その手紙の内容は次の様なものだったのです。
「これ以上抵抗しても、お互い犠牲が増えるだけで結局はそちらが全滅するだけだろうから、ここらで和議を結ぼうではないか。和議の意志があるならば、阿弖流為と母礼はこちらの陣に投降すること、そうすれば二人の命は元より、兵や民を傷つける様なことはしない。また、今後陸奥を治める上で、蝦夷の民を苦しめる様なことはしない。」
冒頭に挙げた歌は、この時の様なことを歌ったものと思われます。
ねぶた流れろ、忠臣(まめのは)とまれ、ださはせよだせよ
これに対する阿弖流為様の返事の代わりとして、四月十五日、母礼様と五百人の従者を武装したまま引き連れて投降したのでした。田村麻呂様は笑ってこれを迎え、阿弖流為様達もかの人の度量の深さに感服し、警戒心を解いて武装を解除して、母礼様と二人で京まで同行することを承諾したのでした。断っておきますが、田村麻呂様は本気で彼らと和解をしようと思われていたのです。しかし、現実はそれほど甘いものではありませんでした。
七月十日、田村麻呂様は二人を連れて、鈴鹿御前様や綿麻呂様や賢心法師様と共に、『今生』を肩に乗せて凱旋なさったのでした。胆沢城の残った工事は、道嶋御楯様にお任せになってのお帰りでしたが、都に着くなり阿弖流為様と母礼様とは引き離されてしまったのでした。二人のことを案じて落ち着かぬまま祝賀の集いを終え、いよいよ二人の御処分についての朝議が開かれました。田村麻呂様はその席で、
「阿弖流為と母礼を無事故郷に帰せば、中央による支配を陸奥の者達も認め、他の地元豪族達も安心して投降してくるに違いないと思うのであります。」
と自分の意見を述べるのですが、かの方以外の全員がこれに反対し、鳥(と)狩(かり)仲間の陛下(桓武天皇)までが仰ることには、
「田村麻呂の言い分も分らんではないが、それは虎を養って、患を残すこととなる。」
と言うことで、二人の処刑が決定してしまったのでした。しかし陛下はこの時田村麻呂様を哀れに思われたのか、かの方に立派な邸宅を賜ったのです。
八月、河内国杜山(もりやま)において二人の処刑が行われました。田村麻呂様もこれを目撃しに、
鈴鹿御前様や短甲(身分の低い者の当時の鎧)姿の従者の三諸綿麻呂様や賢心法師様と、『今生』を肩に乗せてそこを訪れていました。いざ処刑と云う段になって、田村麻呂様は綿麻呂様に抑えつけられながら、とうとう堪え切れずに泣きながらこう絶叫したのです。
「阿弖流為、母礼、済まなんだ。わしを信じてここまで来てくれたのに、この様な仕儀になってしまうとは。許してくれ。」
これに対し阿弖流為様は、意外と思える程静かに笑いながらこう仰ったのでした。
「田村麻呂さ、そうお嘆きにならねばなんねえ(なりますな)。俺ぁこうなることぁ、薄々感ずいておったし。それより、田村麻呂さと云う武人ぁ最後までおい等どご裏切る気ぁ無かったと分り、おめ(お前)どご(を)信じてここまで来たことを後悔しないで済んだことを喜んでおるっす。今後の胆沢のこと、陸奥のこと、蝦夷のことをお頼みするっす。そしておいと田村麻呂さの心が通じ合った様に、渡来した者も含めて同じ日本さ住む者誰もが等しく平和に暮らせる世どこ(を)、いつかこの日本さ創ってけれ。」
「阿弖流為!」
と田村麻呂様が叫んだ時、阿弖流為様と母礼様の首は跳ねられたのであります。田村麻呂様の肩の『今生』も、主人の悲しみを察したのでしょう。悲しく、
「ギャー、ギャー。」
と何度も鳴くのです。田村麻呂様がしばらく下をお向きになった後、後ろにいる筈の鈴鹿御前様を探したのですが、もはやそこにはかの方の姿は無く、その後綿麻呂様といくら探してもその行方は杳として知れなかったのでした。その後田村麻呂様は、処刑の後河内国片埜(かたの)神社に阿弖流為様と母礼様の為の塚を作り、賢心法師様と共にその冥福を祈ったのです。
田村麻呂様がしばらく下をお向きになった後、後ろにいる筈の鈴鹿御前様を探したのですが、もはやそこにはかの方の姿は無く、その後綿麻呂様といくら探してもその行方は杳として知れなかったのであります。その後田村麻呂様は、処刑の後河内国片埜(かたの)神社に阿弖流為様と母礼様の為の塚を作り、賢心法師様と共にその冥福を祈ったのでした。そして清水寺も改築して例の清水の舞台も作り、賢心法師改め延鎮法師様へのお礼としたのです。
作品名:一縷の望(秦氏遣唐使物語) 作家名:斎藤豊