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一縷の望(秦氏遣唐使物語)

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後にこの賢心と云う修行僧は延鎮と名を変え、その僧が住むこの近くにある庵は、田村麻呂様も味わった泉の水に因み清水寺と名付けられたのでした。
 ところで、田村麻呂様が『後生』の子の若鷲『今生』を肩に乗せて蝦夷征伐に行く途中、伊勢と近江の県境の鈴鹿峠に差し掛かった時のことでした。峠を夜越えようとしたかの方は、土地の者にこう言って止められたのです。
「これから暗くなるさかい、峠越えは明日にした方がええんやないか。」
「何故だ。わしは暗いのなど、平気だぞ。」
「この峠には、鈴鹿御前と云う女盗賊の親玉が巣食ってますんや。」
「ははは。この田村麻呂がたかが女盗賊を恐れるものか。ここは一つ遠征の幸先を良くする為にも、女盗賊を血祭りに挙げてくれよう。」
 そう言って田村麻呂様は、馬に乗って単身峠越えを敢行されたのでした。すると日もとっぷりと暮れてしまってから、峠のちょうど中間にあばら家があって、中から灯りが洩れていたのでした。かの方は、丁度良い所に家があった、と思い、その家の戸を叩いたのです。すると中から、結髪に竹の櫛と頭帯を付け、上半身に赤い絹を首に玉を身に付け、倭(し)文(づはた)機(き)帯(おび)を巻いてその下に赤い柄物の白い裙を穿き、暗闇の中でもはっきり分かる程の美貌と膨らんだ胸をした、二十六・七の女が出て来たのでした。
「すまぬが、峠で暗くなってしまい、難儀をしておる。一夜の宿をお借り出来ぬだろうか。」
 すると女は鄙には稀な標準語で、こう答えたのです。
「構いませぬが、山奥故、何のお持て成しも出来兼ねますが。」
「いや、構わぬ。私は坂上田村麻呂と申す。そちの名を聞かせてはくれぬか。」
「はい、田村麻呂様。私は、鈴鹿と申します。」
『こ奴、いきなり本名を名乗って来るとは小癪な。もうしばらく様子を見るとするか。』
と内心思いながら、田村麻呂様は女の招きに応じて、家の中に入ったのでした。すると、何のもてなしも出来ぬと言いながら、醴(こ)酒(さけ)(甘酒)と塩辛い干し魚も用意してあり、二人はそのまま楽しく酒盛りをしたのでした。やがて旅の疲れと酒が入って満腹したこともあり、かの方はその場にごろりと横になり、鼾をかき始めたのです。鈴鹿御前はその寝息を確かめると、使い込まれた刀子(とうす)(短刀)を取り出し、鞘を払って振りかぶり、田村麻呂様の胸目掛けて突き刺そうとしたのでした。しかし、鈴鹿御前の正体を知っていたかの方は、最初からこの凶行を誘って眠った振りをしていたのです。刀子が突き刺さる瞬間、傍で眠っていた『今生』が眼を覚まして、飛びながら鳴き騒ぐのを尻目に田村麻呂様は身を素早くかわし、鈴鹿御前を捕らえようとしたのでした。しかしかの女はすらりとその手を掻い潜り、刀子を右手で横に構えて、こちらを睨みつけて来たのでした。
「さすがは武官の将だね。それじゃあ、本気で行くよ。」
 そう言って鈴鹿御前は、刀子を切っ先鋭く振りまわしてきたのです。その腕前にさすがのかの方も素手ではよけ切れず、ついに都を出る時帝から贐(はなむけ)に賜った太刀「鬼切」を抜くと、あっという間に得物を払い落して、かの女を与(くみ)しいてしまったのでした。すると、鈴鹿御前は慌てるどころか艶然と微笑みながら、驚くほど膨らんだ胸を波打たせながらかの方を見つめ、こう言い始めたのです。
「強いねえ。あたいを与しいた男はあんたが初めてだよ。あたいの首を取る前に、女盗賊の味を確かめてみたらどうだい。」
 田村麻呂様は一瞬躊躇したものの、精力盛んなかの方はかの女の魅力と胸に抗し難く、その着物を脱がせ始めたのでした。当初は鈴鹿御前が誘惑したものの、かの方のあまりの男らしさにかの女はめろめろとなってしまったのです。事が終わって二人は粗末な床に横になりながら、まず鈴鹿御前から話し始めたのでした。
「ねえ、あんた。奥さんはいるの?」
「おるぞ、高子と云う恋女房がな。」
「そうなの。こんなに強い男の女房になれて、その奥さんが羨ましいわ。これからどこへ行く積りだったの。」
「うむ。帝の命で、蝦夷を退治しに行く所だったのだ。」
「ふーん、そう。それじゃあ、あたいを連れておくれよ。あたいは先見が出来るから、何かと便利だよ。」
「お主を連れていくとして、どういう名目で連れて行こうか。」
「馬鹿ねえ。奥さんがいても、第二夫人ってことにすれゃいいじゃないか。」
実はこの鈴鹿御前とは自らこの役を志願した未亡人の喜姫(きじょう)様であったのです。田村麻呂様がお盛んなのを利用して、鈴鹿御前と名を変えて征討軍に潜り込む目的でしたことなのでした。喜娘様は種継様との思い出深き舘を出るに辺り、新しい舘にどうしても馴染めなず、このお役目を口実にそこを出ていたのです。最初にあった村人も、もちろんかの方を密かに支援する秦氏の回し者だったのでした。
またこの後、陸奥介兼鎮守府将軍三諸大原(みむろのおおはら)様から兵站補給を受けたのですが、その息子の綿麻呂様がまだ若いのにも関わらず、武芸百般に通じていると同時に教養も有り、また臨機応変に気働き出来る所が田村麻呂様の気に入る所となり、自らの従者として戦(いくさ)に連れて行くこととしたのです。
また胆沢(いさわ)に着いた田村麻呂様達の本陣に、一人の老僧が訪ねて参りました。老僧は自らをこう名乗ったのです。
「拙僧は行叡居士と申す者で御座います。音羽山で賢心が世話になったそうですが、そのお礼に、この度の戦に必勝する策を授けましょう。」
根が単純な田村麻呂様は再びこの言葉をこのまま信じ、行叡と名乗る見事な顎鬚の僧をその陣営に大切にお迎えされたのでした。この老僧は、実は最澄様の最初の師であった行表法師様なのです。喜娘様共々田村麻呂様を助ける為に、藤原北家の祖父小黒麻呂から依頼されていたのでした。行表法師様は前述した様に、祖父小黒麻呂とは以前から顔見知
りだったのです。以前蝦夷征伐に成果を挙げられなかった祖父は、陛下(桓武天皇)の御為にも今度こそ蝦夷征伐を成功させようと必死なのであり、また蝦夷は、故種継様の仇であるとも思い込んでいたのでした。。
話は元に戻って延暦十年の六月、官軍は再び胆沢を攻め、得意の奇襲戦法で迎え撃つ阿弖流為様であります。しかし、鈴鹿御前様の予知と行叡居士の緻密な策を元にする田村麻呂様の助言により、ことごとくそれは裏をかかれ、加えて毘沙門天の生まれ変わりの様な三諸綿麻呂様の八面六臂の活躍により、阿弖流為様と母礼様は取り逃がしたものの、綿麻呂様が伊佐西古様を討ち取って戦いは官軍の勝利に終わったのでした。まことに綿麻呂様は、その活躍振りは元より、その姿格好も碇型で、興福寺の毘沙門天像とそっくりなのです。四か月の戦果は蝦夷の首四五七級、捕虜百五〇人、攻め落とした敵の拠点七五ヶ所で、大動員の割にはいささか物足りぬものではありましたが、征夷大使(大伴弟麻呂)様はこれに満足し、十月二八日、都に帰還したのでした。それでも戦果は十分だった様で、陸奥国の豪族がこの後次々と帰順してきたのです。