一縷の望(秦氏遣唐使物語)
と口々に叫び、そこにいた皆を集めたのです。伊佐西古様と阿弖流為様は一段高い所に乗り、伊佐西古様はこう叫んだのでした。
「皆の者良く聞くべ。話どご(を)聞いていた者もおると思うに、今日より全軍の指揮ぁここにいる大墓の阿弖流為さ取ることとなったっす。皆異存ぁ無いが。」
すると、兵全体から、
「おおう。」
と云う歓喜の声が返って来たのでした。
ところで動かざるを得なくなった官軍は、北上川西にいた軍を三つに分け、中軍と後軍から抽出した前軍四千が東から渡河し、期日を決めて巣伏川で合流して一斉攻撃をする計画を立てたのでした。当初は中軍・後軍の戦いは優勢で、攻め立てられて退却する蝦夷軍を追って十四の村の八千戸を焼き払い、巣伏村まで迫ったのでした。ここで予め分けていた前軍と合流しようと云うことだったのですが、伊佐西古様率いる本隊と抗戦して苦戦したあげく、合流する筈の前軍が、母礼様の指揮する別動隊の攻撃で渡河出来ず、その間に蝦夷軍は兵が八百人程増強され、中軍・後軍はたまらず後退してしまったのでした。ところが、後方の東山から退路を断ってきた阿弖流為様率いる四百程に奇襲され、官軍は武将二十五人が戦死し、負傷した兵が二四五人、逃げようとして川で溺死した者が一〇三六人、都に帰った者一二五七人と云う有様でした。生き残った将の道(みち)嶋(しま)御楯(のみたて)様と秦氏の出雲諸上(いずものもろかみ)様が逃げようとしていた時、森の中から阿弖流為様と母礼様が鬼の面を被って現れ、二人をあっという間に組伏せてしまわれたのです。二人はもがきながらこう叫んだのでした。
「わしらは道嶋御楯と出雲諸上と申す。物部とは遠縁に当たる者じゃ。命ばかりは助けてくれ。」
それに対し阿弖流為様は、組伏せたまま鬼の面をかなぐり捨て、
「そうが、おめ(お前)が大楯の小倅が。おめのおど(父)の首を取った戦には、おいのおども参加したっす。その息子と云うんば、今回ばり(だけ)見逃してやるべ。」
と言うと横の母礼様が、それを受けてこう言ったのでした。
「良いのが、首領。」
「んだ、おいの名ぁ蝦夷の大首領大墓の阿弖流為っす。助けてやる代わりによっく顔どご覚えておけ。今度戦場で遭う時ぁ容赦しねっす。」
と阿弖流為様が言うのを聞いて、母礼様も面を脱ぎ捨て、
「おいぁ副首領の盤具(いわとも)の母礼(もれ)っす、覚えたが。武器は貰っておくっす。おい等の気が変わらぬ内に、さっさっと去(い)ね。」
と一喝すると、二人はさっさっと武器を捨てて逃げ出したのでありました。この様にこの戦で命の助かった者が物部の者だけだったのは、偶然とは思えぬことだったと思われます。蝦夷も物部の者が多いので、戦い辛かったことは確かでしょう。この惨めな敗戦の結果を、戦の中盤で官軍が十四の村の八千戸を焼き払ったことだけを強調して紀古佐美様は報告し、最初の軍律の厳しさは何だったのか、と云う結果になってしまわれたのです。この戦の結果を詰問した藤原小黒麻呂や南家藤原継縄様(藤原豊成の子、大伴旅人の婿)も、先の宝亀の戦いで不甲斐無い結果に終わらせた張本人でもありましたから、はなはだ腰砕けの詰問に終始するだけで、蝦夷の反乱だけが征討されぬまま残る結果となってしまったのでした。これが、いわゆる巣伏(すぶせ)の戦いの顛末なのであります。
これに対し、引き下がる様な陛下(桓武天皇)ではありませんでした。第四回目(一度目は藤原継縄・小黒麻呂、二度目は大伴家持、三度目を紀古左美)となる征夷行動を起こす為、東海道の駿河より東、東山道の信濃より東の国々に皮の鎧を二千領作らせ、相模国より東、上野(こうずけ)国より東には兵糧十四万石を用意させ、大宰府には鉄兜二千九百枚を製造させたのでした。その一方、石神山精神社(いわかみやまのたまのじんじゃ)(陸奥国黒河郡)を官社とし、地元の豪族の地位を高め、出羽国では三郡の租税を永久免除にするなど、民心を掴む政策にも抜かりは無かったのです。そしてその上で延暦十(七九一)年七月十三日、征夷大使に大伴弟麻呂(おとまろ)様、副使に多冶比浜成様、坂上田村麻呂様、巨勢野足(こせののたり)様が任命されたのでした。兵力は十万で、これまでの三度の征討軍で最大規模のものだったのです。副使の一人、坂上田村麻呂様は、亡き坂上苅田麻呂様(延暦五年死亡)の子で、父の代わりに将となりましたが、この時既に三十路を越え、役職は近衛少将で位階は従五位下でした。身の丈は五尺八寸(約百九十センチ)、胸幅は一尺二寸(約四十センチ)も有り、身体の重さは、最高で二百一斤(約百二十キロ)もあって父親以上の体格です。眼は日本人でありながら鷹の様な青い目をしていて、怒って睨まれると猛獣でさえにらみ殺す程でしたが、笑顔は童子の様だったと伝えられておりました。また巨体であるにも関わらず、機敏な動きをすることが出来たそうです。
その田村麻呂様がまだ若かりし宝亀十一(西暦七八〇)年秋、平安京にまだ遷都していない頃、山背の音羽山で鹿を狩ろうとしていたことがありました。父親から貰った若鷲を肩に止まらせたままだいぶ慣れぬ山奥を彷徨った挙句、賢心と云う名の若く痩せこけて鍛え上げた修行僧と出会ったのです。田村麻呂様は、賢心法師様にこう尋ねました。
「長い間山の中を彷徨っていて、持参した水筒もすっかり空になってしまいました。どうか水をお分け頂くか、水のある場所をお教え下さい。」
「それならば、私が昔見つけた湧水が御座いますので、ご案内致しましょう。」
と賢心法師様は答えられて、先に歩き始めたのでした。歩き始めてすぐにその湧水は見つかり、田村麻呂様は傍らにお堂があるその水を、若鷲と共にごくごくとお飲みになったのでした。
「いやー甘露、甘露(おいしい水)。助かり申した。」
「この水の側で、私は昔行叡(ぎょうえい)居士(こじ)と云う観音様の化身に出会い、その方が残してくれた霊木で千手観音様を彫り、このお堂を作ったのです。ところで田村麻呂様は何故鹿をお求めなので御座いますか?」
「いやー実は新妻の高子が身籠ってくれてな。お産に良いと云う鹿の生き血を求めて来たのだ。」
「それはいけません。高子様のお産の為に、観音様に使える鹿を殺生する等以ての外。例え一時その血が役立ちましょうとも、生まれてくる子に観音様の有り難き御加護は望めませんぞ。」
素直な性格の田村麻呂様は、賢心法師様のこの言葉にはっと気が付き、若い修行僧に土下座をして謝ったのでした。
「申し訳ない。若い妻の妊娠に浮かれて、そこまでは気がつかなんだ。このお詫びに御坊とこの仏様の為に、随分先の話だが、私が死んだら我が家を寺として進ぜよう。さらに名の無かったこの鷲に、今日の失態を忘れぬ様に『後生』と名付けましょう。」
「それはそれは。つい先程出会ったばかりの拙僧の為にそこまでして頂いては、返って申し訳無い。ですが、折角の申し出をお断りするのも礼を失するかと存じますので、この恩は田村麻呂様の今後の人生をお守りし、その約束の家が出来るだけ豪華な物になるよう御協力致しましょう。ははは。」
作品名:一縷の望(秦氏遣唐使物語) 作家名:斎藤豊